無意識日記々

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また今度にして?

いや、すぐ書くよ(笑)。

前回綴りかけた、何故そこまで私が『気分じゃないの(Not In The Mood)』の歌詞を気に入っているかという話のことね。

最初この曲を聴いた時に「まるで映画の一場面のようにありありと情景が浮かんで…」──と、思いかけて、やめた。いや、これは映画よりも更なる何かの筈だ、と。絵が思い浮かぶだけではない。それはミスリードですらある。この歌詞は、もっとこう、“文学的”、な筈なのだ。

クオリアという概念がある。「貴方の見ている赤色と私の見ている赤色は果たして同じ赤なのか?」というやつだ。全く異なる色を見ているとしても同じ赤という名前で呼んでいる為お互い区別のしようもない、という。

文学とはそのクオリアが同じか違うかを表現する、伝え合う方法だと思っている。それは、言葉にしか出来ないことだ。小説とは、或いは文学とは、映像を撮るための技術や資金や時間がないからとられる表現ではない。少なくとも、そこには留まらない。ハリウッドを顎先一つで動かせる権力者大富豪になろうともカメラで捉えられない事を捉えて記すのが文学だ。それは、このやり方でしか、出来ない。少なくとも、他よりは、得手だろう。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』には、その匂いがする。そう思いかけて思考を整理している最中に、ラジオでヒカルからヒントが与えられた。曰く、締切ギリギリの2021年12月28日火曜日のロンドンで、歌詞を書くアテが全くなく、あとはもう目に入ったままをそのまま書くくらいしかやれることがなくなってこの歌詞を書いたのだと。幾ら何でもギリギリ過ぎだろアンタ。

しかし、お陰で、ヒカルの素直な「世界の見方」「世界の見え方・見聞きの仕方」「世界の捉え方」…どの言い方でもいいけれど、その感覚が歌詞の中に湛えられる事になった。怪我の功名どころではない奇跡だったといえる。

この歌からは、ヒカルのクオリアが伝わってくる。ヒカルには世界がこんな風に見えている…その感覚が歌を通して伝わってくる。錯覚かもしれないが、それは錯誤が本質なのだから合っている。後は信じるかどうか、つまり、騙される気があるかどうかだけなのだ。(言ってることが我ながら難しい)

確かに、この歌の歌詞には何の技巧も無い。奇抜な言葉の乗せ方もめくるめくような音韻の踏襲もない。本当に、ありのままを呟いただけだ。しかし、どんなありのままもその人ならではのものでしかありえない。これは、だから、「宇多田ヒカルのありのまま」が歌の中に描かれているのだ。

「貴方という存在は、何が出来るからとか、何を知っているからとか、見た目がどうとが声や財産がどうとか、そんな事で価値があるのではない。ただそこに居て、たった今そこから世界を眺めている。世界を感じ取っている。その事自体に途方も無い価値がある。それは途轍もなく尊く、堪らなく愛しいことなのだ。ヒカルさん、貴方はやっとそのことを、歌を通じて描けたのですよ。」

私はそう結論づけた。だからこの歌の歌詞は今まででいちばん好きなのよ。『WINGS』や『日曜の朝』なんかも近いものがあったけど、これは何かひとつ突き抜けた感じがするんよこの『気分じゃないの(Not In The Mood)』に関しては。

んでも、ですよ。つまりそれって、ヒカルさん、この期に及んでもまだ自分が愛されてる理由を把握し切れてなかったってことでは? あれだけ今回のアルバムで「自分自身との関係性をみつめて、自らを愛せるように」と言い聞かせて歌詞を沢山書いてきたというのに、いちばん大切な「あなたがそこにいるから」という根源的なポイントをずっと見逃してたってことじゃない? 最後の最後に締切に追い詰めれて漸くそこに、恐らく巧まずして望まずして無意識のうちに辿り着いた。それって、まだまだ自分自身を愛し切れてなかったってことなのではないでしょうか。そしてこうやって無事アルバムを完成させた今振り返って、やっとそこに気づいてくれていればこちらとしても嬉しいぞっと。

つまりだ。恐ろしいことに、ここまでのアルバムを仕上げておいて宇多田ヒカルさん、まだスタート地点に立ったとこなのよ。ヒカルさん自身がまだまだ自分の魅力を掘り下げ切るとこまでいけてなかったのに、この出来映えなんですよ。気が早過ぎるのはわかりきっているけれど、次回作にはそこらへんのところの追究がより顕著になるのではないでしょうか。この歌で歌われているとおり、「また今度」がまだまだあるのですよ貴女には! 嗚呼、恐ろしい!