無意識日記々

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限界の向こう側

アルバム『BADモード』で気に入っている曲間は幾つもあるが、とりわけインパクトが強かったのが『気分じゃないの(Not In The Mood)』と『誰にも言わない』の曲間だ。目の覚める思いだった。

NITM(っていう略語を使うのはまだ早いか)、『気分じゃないの(Not In The Mood)』は7分半と長尺な曲で、特に終盤は重厚で陰鬱なトーンが続くのだがそれがいきなりカットアウトされて『誰にも言わない』のあの静謐なイントロダクションが始まる。その落差たるや空から落ちたかのよう…いや寧ろ、雲を突き抜けた瞬間のよう、かな?

どうにもこの感覚、既視感があると思ったら、あれですよ、『HEART STATION』アルバムの『テイク5』と『ぼくはくま』の曲間ですよ。あれもまた『テイク5』のテンションの高い演奏がいきなりブツッと途切れてのんきなまでに平和を感じさせる『ぼくはくま』のイントロがのほほんと始まっていた。なんか似てる。

特に自分にとって『誰にも言わない』は、発売当時「すわ最高傑作か??」とまでこの日記に書いた非常にお気に入りで特別な楽曲。それが、ヒカル自身『最高傑作かも』と自賛した『ぼくはくま』と同じような扱いを受けているのだから感動した。

また、『気分じゃないの(Not In The Mood)』も『テイク5』と相似点がある。昨夕からSpotifyでも配信が始まった「Liner Voice +」で語られている通り、『気分じゃないの(Not In The Mood)』は歌詞が全く埋まらずギリギリまで粘った結果、いつもの言葉でグルーヴ感を出していくヒカルのリリックスタイルがとれず、音韻も構成も等閑にした、ただひたすら言葉を載せただけのスタイルになった。一方『テイク5』も、ヒカル自身これには通常の意味での歌詞を載せる事は難しいとしてただ“詩”を

書いて歌ったと述べている。これもまた、音韻や構成といった音声的要素を鑑みず、文章としての意味、言葉としての在り方の方にフォーカスしたアプローチだったのだと。

両者に共通しているのは、ヒカルが追い詰められた余裕の無さである。『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』や『BADモード』の『ネトフリでも観て』などの一節に現れているように、歌詞で遊べるのはヒカルが余裕綽々モードのときだ。翻って『テイク5』や『気分じゃないの(Not In The Mood)』でのヒカルの作詞には全く余裕がなかったように思われる。幾らか原因は考えられるが、トラックが音楽として非常に強く、かつイマジネーションを甚だしく喚起させるタイプの曲調だったことが大きいのではないか。歌詞もそれに応じた、意味内容としての言葉の際立ちを求められたのだと。言葉で遊んでられる場合じゃなかったというか。

これらが示唆するのは、2曲に通じるあの急峻なカットアウトは、その時点でのヒカルの、個人として感じる“限界”のようなものが表現しているのではないだろうか。そして、その先に置かれる楽曲というのは、何か(その時点での)自分の限界以上のものが宿ったトラックが置かれていると。この曲順で聴くことによってますます『誰にも言わない』の神聖性みたいなものが強調されたように思う。曲順マジックの妙が最も印象的な瞬間だった。