無意識日記々

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3つの“ノン-バイナリ”

ブラッドリィ・スターンによるビルボード・インタビューでヒカルがノンバイナリ発言に至るまでの葛藤が語られていた。やはりこの話題の注目度は大きい。

ノンバイナリ/Non-binaryという語、要は「二分しない/二分できない」という意味である。今や確かにジェンダー用語だが、もっと一般的に、ただ“二項対立にしない”という意味でここでは使わせて貰おう。アルバム『BADモード』には次の3つの「ノン-バイナリ」があると思う。

1.日本語と英語

2.オリジナルとリミックス

3.人と人

1と2は解説不要な気がするが一応語る。

今回の『BADモード』は日本語曲と英語曲が入り乱れているのが特徴である。嘗ての宇多田光は、宇多田ヒカルUTADAとして日本語曲と英語曲を分けて発表していたのは御存知の通り。ただアルバムを別々に作るのみならず、別名義にし、その上レコード会社まで分けるという徹底ぶりだった。お陰で『Sanctuary』の音源化が大幅に遅れるなど弊害も多かった。

それが今やどうだ。勿論、もともと日本語主体の楽曲でも英語を自然に混ぜてきていた人だったが、日本語曲と英語曲をここまで自然に繋ぎ合わせてアルバムを作るだなんてね。ナチュラル過ぎて1周目はその事実を忘れていた位だ。実際、『Find Love』は英語バージョンが、『Face My Fears』は日本語バージョンが、アルバム本編にはそれぞれ収録されているっていのは何故そういう配分になったのかよくわからない。日本国内と海外で入れ換えられているということもないようだが、多分逆でもそんなに印象は変わらない。今や混ぜこぜでどちらを選んでも大丈夫になった感じだ。日本語と英語の二項対立は大体無くなったと言っていいのではなかろうか。

2もアルバム『BADモード』の特徴だろう。その昔2004年の『EXODUS』には初手からティンバランドによるリミックスとして『Wonder 'Bout』が収録されていた(よって、この曲の“オリジナル・バージョン”は未だ未発表である…存在するとして、だが!)事があるが、今回はそれに近い事態の楽曲が幾つか存在する。

代表的なのは『Face My Fears』だろう。どう聴いてもヒカルのサウンドではない。スクリレックス独特の音遣いだ。これは最初っからヒカルのメロディをスクリレックスがリミックスしたものだと捉えた方がいい。切り貼りしまくってたからアルキタニ問題が発生したのだろうし。直せてよかったね。

他にも、『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』も初手からリミックスみたいなものだ。サム・シェパードが「クラブミックスみたいになっちゃうけどいいの?」と訊いてきたのだからね。ヒカルの元々のデモは4、5分だったのだろうが、遠慮なく12分近くまでストレッチされている。これがリミックスでなくてなんだというのか。20年経ったらデモバージョンとしてオリジナル音源が発表されるかもしれんぞ。

『One Last Kiss』もそれに近い。前にも書いたが、恐らくこの曲は後半がA.G.Cookによるリミックスのようなものなのだ。オリジナルとリミックスがシームレスに繋がっているトラックになっている。オリジナルとリミックスのハイブリッドとでも言えばいいかな。

何が言いたいかというと、今のヒカルは、そんなに自分のサウンドに拘っていないのだと。素材を人に任せて弄くり回して貰っても、いいモノが出来ればそれで行こうという姿勢。行けるとこまで行けるとこまで自分の音で埋め尽くそうとした『EXODUS』などとは対照的なアティテュードである。

1にせよ2にせよ、二項対立を持ち込まない、ボーダーレスに混じり合わせる態度が今のヒカルなのだ。自覚的ではないのかもしれないが、性自認にノンバイナリな感覚を持ち込めた事と、言語やサウンドにも区別をつけなくなってきた態度は、どこか奥の方で繋がっているように思える。何もかも「私」の何かなのだから、2つに分ける必要がない。それが今の宇多田ヒカルなのではないか。

それが更に押し進められているのが3の話なのだが…長くなりそうだから、次回と言わずまたいつか触れたいと思いますですよ。歌詞をもうちょっと聴き込んでからの方がいいかもだわ。