無意識日記々

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"It's just one of them days/そんな日もあるさ"

今回の『BADモード』アルバムで、宇多田ヒカルのクリエイティビティとセレンディピティがもっとも反映されたのが『気分じゃないの(Not In The Mood)』だろう。『Liner Voice+』の英語版を聴いて、ますますその思いは強くなった。

時は2022年12月28日。恐らく締切当日に、まだ最後の曲の歌詞が出来上がっていないヒカルは出掛けた先のカフェやパブで目についた風景をそのまま歌詞に起こすという荒業に出た。どう考えても苦し紛れとしか思えないこの手法で、しかし、この名曲の素晴らしい(私にとっては過去最高に大好きな)歌詞は(締切の)崖っぷちで生まれたのだ。

夜にパブで実際に体験した事をもとにしてヒカルはこう歌う。

『杖を片手にかけて

 タバコに火をつけてる老女を横目に

 スコッチを呑んで作詞しているとそこへ

 クリアファイルを抱えた人がやってきて

 こう言った

 「私のポエム買ってくれませんか?

  今夜シェルターに泊まるためのお金が

  必要なんです。」

 ロエベの財布から出したお札で

 買った詩を読んだ』

もう初めてここを聴いた時は謎のゾクゾクが止まらなかったが、ヒカルは『Liner Voice+』の英語版でこういう主旨の発言をした。

「この曲はサビの歌詞とメロディーが最初に出来ていた」

のだと。

このパートのことである。

『Rain, rain go away

 Fall on me another day

 Rain, rain go away

 I'm not in the mood today』

日本語にすると…ってそれそのまんま歌ってるんだよな。こちらのパートになる。

『雨、雨、どっか行け

 また今度にして

 今日は気分じゃないの』

ほんと、英語の日本語訳をそのまま歌っただけなのですわここ。

で。雨というのは落ち込みや悲しみの比喩ということのようだが、それについてはまた今度語るとして、ヒカルはこれらを踏まえてこう語った。(※ 私による要約です)

「雨を嫌がる歌の詞を書いていたら

 雨風をしのぐために今夜シェルターに泊まりたいからと

 詩を売ってくる人に話し掛けられた」

のだと。なんなのだこれは。

ヒカルはそういう風には言わなかったが、これは、予め既に書かれていた歌詞(『雨、雨、どっか行け…)に描かれた感情を持つ人間が、作詞の締切日の夜にヒカルの前に現れて、あろうことか向こうから話し掛けてきた事になる。ヒカルがそういう人を見つけて声をかけたんじゃない。そうであってもとんでもないが、これはもっと凄い、凄まじい事態だ。私ならこう言う、「運命が向こうから歩いてきたのだ。」と。

どう考えても普通じゃない。いや、通常の意味での天才でもこんな事は出来ない。起こらない。

セレンディピティとは通常創作や発見の上での話だ。それこそベースを入れ忘れたからとか、パンを放置してたらカビが生えたとか、宇宙に望遠鏡を向けたらノイズが取れなかったとか、そういうアクシデントの中に意味を見出す事を指す。それは、創作や発見の意志、或いはそこに意味を見出せる知識や洞察力があって初めて可能な事なのだ。

そう、今回のように向こうから歩いて話し掛けてきたりはしないのだよ創作や発見は。宇多田ヒカルは、セレンディピティ以上の何かを以てして今回『気分じゃないの(Not In The Mood)』の作詞を完結させた。ズバリ、まだ人類はこの現象に対する言葉をまだ持ち合わせていないのだ。

私がヒカルを過小評価するなというのはこういうことを指して言っている。欧米のトップアーティストたちと較べて引けを取らないとか遜色ないとかそんな矮小なレベルに評価を落ち着けないで貰いたい。これは人類の最前線、或いは最早ただの人外の所業なのである。

なのに、なのにである。ヒカルはこの歌をこの歌詞で締めるのだ。

『It's just one of them days』

そう、「そんな日もあるさ」と。

(DeepLさん、ぴったりの訳をどうもありがとう)

こんな奇跡すら陳腐化するマジック・モーメント満載の日を終えるにあたって、「長い人生、そういうツイてない日もあるもんだ」とか、日常感満載の呟きで歌を終えるとか、一体どういうことなん!? ──……いや、きっとそうなのだろう、ヒカルにとって、2021年12月28日のような日は、歌を作り続けている限りまた出逢うだろうということだ。そう、まだまだヒカルはここから成長していくんじゃないか。そう予感させるとんでもない2022年初頭なのだった。ほんと、1日でも長生きしてヒカルがどこまで行くのかを見届けたいものですよ。でも、高みへ昇れば昇るほど、今までのように、僕らにはきっと更により身近に感じさせてくれる。不安に思うことは何もないのだ。兎に角、生きよう。生きたいわ。