無意識日記々

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仕方・在り方・考え方・受け取り方

『光』の次に取り上げるべきは『Passion』だろうか。情熱というともっと熱い曲調を想像しそうな所を温度感の無い抽象的な感覚を中心にしているこの名曲は、いわばヒカルが何をどう理解しているかを表現した楽曲だ。自分の中から生まれてくるものが何がどうなってそうなっているのかを種明かしをしたような。特にシングル・バージョンはその抽象的な感覚からいつものお馴染みの宇多田ヒカル節が生まれてくる様をそのまま描き出していて見事過ぎる。

そこから『Passion』以降も幾つもの「ヒカルが自分自身を表現した曲」があったが割愛する。(メチャメチャ長くなるので)

そして『気分じゃないの(Not In The Mood)』でヒカルは「自身が世界をどうみているか、世界がどう見えているか」を表現するに至った。

初期から連綿と続く「所謂宇多田ヒカルらしい音楽性」というのは、例えば『BADモード』でいえば『Time』だが、非常に直接的で具体的でわかりやすく、向こうからこっちに飛び込んでくるような感触が特徴だ。ラジオから流れてきたら自然とそっちを向いてしまいそうな。こういう楽曲を「能動的」と呼びたい。我々が受動的なままでいていいという意味で。こっちが読み取ろうとしなくても理解しやすい楽曲な訳だ。歌手が「これを伝えよう」という確固とした意図と情熱をもって伝えてくれるもの。「ヒカルがしてくれること」である。

『光』はいわば、宇多田ヒカルという人がそこに居たときに、人として出会ったときに我々が得る感触を表現した楽曲だといえる。明るくてキラキラしていて、しかし背景には限りない闇が拡がっていて…みたいな。「ヒカルの在り方」である。

『Passion』は、この流れでいけば「ヒカルの考え方」を表現した楽曲だ。この曲に関していえば、こちらからやや踏み出して「読み解く」という行為が必要だろう。ラジオから流れてきてもボーッとしてたらスルーしてしまうような。リスナーの方に幾分かの能動性を要求する楽曲である。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、したがって、最も受動的な表現の楽曲となる。「ヒカルの受け取り方』とでもいうか、ヒカルは歌詞の中でただその日にあったこと、その日に見たことを呟いているだけで、それ以上の事は大して言わない。人によっては「…で、何?」と結論を迫りたくなるようか。『君のこと絶対守りたい』みたいな強烈なメッセージは一切飛んでこない。

そこが、凄いと思う。リスナーに届くようにと情熱を込めて歌うというのは表現活動としては王道だ。それは、向こうから我々に届けてくれるもの。こちらは余計なことはしなくていい。ただ受け止めればいいだけだ。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』のヒカルは何もしない。こちらに何も投げ掛けてこない。だが、今迄でいちばん、そこに宇多田ヒカルが居る─その日、2021年12月28日に宇多田ヒカルがそこに居たという事実を強烈に感じさせる。そこがとんでもなく凄いと思う。受動態、passiveな感覚を結果としてこちらに伝えてくれるというのは、一体どうやっているのかよくわからない。何なのだろうこれは。

『光』の時点で「ヒカルをこうも表現できるだなんてどうやったらこんなことが出来るんだ!?」と思っていた。『Passion』でヒカルの頭の中の、抽象的な思考に触れた気がした。しかし『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、何もしない。こちらに何も齎さないヒカルが、確かにそこに存在することをこちらに伝えて…いや、ここで“伝える”という言葉を使うから紛らわしいのか、「ヒカルの存在を直に感じさせてくれる」と言うべきなのかもしれない。我々がまるでその日のヒカルに“なる”ような、そんなフィーリングがこの楽曲には宿っている。もともとその才能は飛び抜けているのだけど、この曲でいよいよ別次元に突入した感が強い。なかなか私もうまく書いて伝えられていないが、そのもどかしさを共有するところから始めるのが今のヒカルのフェイズであると言えばいいのかもしれないな。