無意識日記々

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遠のく真実を 追いかけなくても悪くない

こうやって歌詞や対訳の解釈を繰り返しているが、何度でも言うけどこんなんいちリスナーの妄想に過ぎず、正しいとか間違ってるとか以前の話だ。これを聴いてこう思った、とかは単なる感想だし、作詞者はこう考えたのではないか?といった話は天気予報より遥かに当たらない推測でしかない。シンプルに、「こんな見方もできるのか~」と距離をとって楽しんで欲しい。

一方で、当然作詞者の書いたときの意図というのも存在していて、明らかな誤読や誤解といったものもある。どこがどう誤っているのかがクリアカットなケースである。

例えば、ヒカルもインスタライブで触れていた『君に夢中』のこの歌詞。

『知れば知るほど遠のく

 真実を追いかける最中に

 私が私を欺く』

この書き方はメロディの区切りに沿った改行の仕方だ。が、ヒカルのそもそもの意図としては

『知れば知るほど遠のく真実を

 追いかける最中に

 私が私を欺く』

なんだとさ。前も触れたように、ヒカルは「日本語は文字単位でバラバラに音符に載せられるのだからどこで区切ってもいい」と考えて、文章の切れ目とメロディの切れ目がズレたとしてもケアしない。だが現実は、「日本語は文字単位でバラバラに音符を載せられる為、テキトーに区切ったら文章の意味が伝わらなくなる。故にメロディと文章の切れ目が一致している方が望ましい≒文意が伝わりやすい」のだ。

これと似てはいるが逆の例が、お馴染み『First Love』の

『明日の今頃には

 私はきっと泣いてる

 あなたを想ってるんだろう』

の一節だ。こうして文字で見ると誤解のしようもない。明日の今頃に私は泣きながらあなたのことを想っているのだ。そうとしか読めない。

だが、『Automatic』の「な/なかいめのべ/るでじゅわきを」に衝撃を受けた当時のリスナーは、「宇多田ヒカルだからメロディと文章の区切りが一致してるとは限らない」として(かどうかはわからないが兎に角)次のように解釈した。

「明日の今頃には

 私はきっと

 泣いてるあなたを

 想っているんだろう」

泣いてる主語を「私」から「あなた」に入れ換えて解釈したのだ。普通ならこんな歌詞の捉え方はしないが、それほどに1999年当時宇多田ヒカルの「メロディと文章の区切りを合わせることに拘らない姿勢」はかなりのインパクトを与えたのだ。こう疑わずにはいられなかったのです。

なので、ヒカルの歌詞が誤読・誤解されやすいのは、結構自業自得な側面がある訳だ。ざまーみろw…とかって言いたいとこだけど、俯瞰してみれば、そのインパクトのお陰もあってそれだけ歌う歌詞書く歌詞が注目され聴かれてるってことだから、これは作詞者としては「でっかいもんを手に入れた時のほんの僅かな代償」でしかないんじゃないかなぁ。負の側面と呼ぶにはあんまりにも可愛らしすぎるだろう。

それに、そうやって多義的に解釈されることが次の創作にも繋がっていく。本人がそれを踏まえて次の作詞に取り組むのでもいいし、作詞者本来の意図でない解釈に基づいた二次創作や他者のオリジナルへの影響などが出てくればそれはそれで楽しい。大体そのように捉えていたら、悪いことなど何もない。クリアカットな誤解・誤読なら、上の例のようにするっと素直に指摘すればいいだけである。それもまた楽しい。なので皆さんも遠慮無く自分自身の解釈を喋ればいいと思いますですよっと。