無意識日記々

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「1じゃない」は「0」なのか「2以上」なのか?

『一箇所が家っていう感覚がないんですけど』

これは「CDTV LIVE LIVE」でヒカルが言った一言。例によって(?)私はここで「ん?」と引っ掛かった。

そもそも、周りの人達から、ヒカルが日本に来たときに「日本に帰ってくる」とか「日本に帰国した」とか無批判に言うのに違和感があった。国籍なんて面倒でわからない話は置いておくとしても、普段ロンドンに住んでる人が日本に来たら普通に「来日」だろうと思うのだ。昔は日本に住んでたんだから帰ってくるとか帰国したとかでもいいといえばいいのだが、ではこのあとヒカルがロンドンに戻ったとして「イギリスに帰国した」って言うのだとしたら…なるほどヒカルの言うように『一箇所が家っていう感覚がない』とするのが収まりがいいのかもわからんね。ニューヨークも含めヒカルはどこにも「帰る」のだ。

で。私は、言い方もそうなのだが、これ昔とちょっとニュアンスが変わってないか?と。昔のヒカルの感覚は「アウトサイダー」で、どこに行っても疎外感を感じるという風な言い方をしていたように思う。家という言葉を使うなら「どの家も落ち着かない」という感じの。

この『一箇所が家っていう感覚がない』という言い方が、どちらを指すのか、だ。「1ではない」が「0である」のか「2つ以上ある」のか。家がないのか家が幾つもあるのか。どうにも今回のヒカルの言い方は後者、「ロンドンも東京もニューヨークもどこも家」に近い感覚を感じてならない。

息子と暮らすようになって初めて「日常生活」にあたるものを手に入れたヒカルにとっては、極端な言い方をすれば息子と過ごす時間は総て「家」なのかもしれない。例えそこが潮見のアパホテルであっても。それは極論にしても、10年前とかならロンドンに居ても東京に居てもニューヨークに居てもそこがホームだと感じられる感覚は、あんまりなかった。どちらかというと音楽スタジオとかインターナショナルハイスクールの空間とか、そっちの方が居心地いい、みたいなね。そういや渋谷Bunkamuraスタジオ一旦畳むそうで。パジャマで出入りしてた場所だしここも家の1つだったよねぇ。

「家」というのは難しい。たとえ血の繋がりがあってもその人達と過ごす時間が居心地よく安らげるとは限らない。しかし、今のヒカルが「家」という言葉を使うニュアンスは、一辺倒ではないにせよどこか安心できる暖かい場所という感覚を含むようになったのではないかなと、あの一言で感じられたのだ。何が望ましいかはわからないが、その点は変化のひとつとしてこうして記しておきたいかなと思います。