無意識日記々

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16年前のユーミンとの対談より

今日は先週もチラッと触れた松任谷由実の50周年記念ベストアルバムの発売日ということで、ヒカルが嘗て彼女のラジオにゲスト出演した時の模様を聴いていた私。(そのベストアルバムを聴くんとちゃうのかぃな)

https://www.youtube.com/watch?v=Y71zNKhvqnE

ヒカルは『ULTRA BLUE』を、ユーミンは『A GIRL IN SUMMER』(素晴らしい名盤!)をそれぞれリリースしたばかりのタイミングでの対談だ。当時は二人とも東芝EMIの所属だったねぇ。

その対談の中で、二人の個性の違いについてユーミンはこんな風に喩えている。

「同じ売り場に行って違うモノにハマってる」

んだと。この二人。言い得て妙というか、こんな形容を会話の中で咄嗟に出来るだなんて、やはり日本語の流れに影響を与えるクラスの作詞家は一味違うね。色んな解釈の仕方があると思うが、全く相容れないわけではないけれど拘る所は違うよねという感じかな。

で。ヒカルの作詞について触れた時にユーミンはこんな風に語ってくれている。

「それで、ニューアルバムなんか聴かせてもらっても、でもだからと言ってそれ(ヒカルの文学的素養のこと)がストレートに文学的に出てるとかっていうのでもなく、変な終わり方したりね、言葉が。なんかね、会話の言葉でもなく本でもなくっていうような、不思議な歌詞なのね。」

“言葉が変な終わり方をする”歌ってどれのことなんだろね。『私を慈しむように 遠い過去の夏の日の ピアノがまだ鳴ってるのに もう起きなきゃ』で歌が終わる『Making Love』あたりが思い浮かぶが、実際のところはどうなのかわかんないわね。

「会話の言葉でもなく本でもなく」─つまり、“話し言葉でも書き言葉でもない”ということだろう。ヒカルの歌詞はどちらでもない不思議な歌詞なのだと。なるほどね。

これの答はとてもシンプルで「それこそが“歌詞”だよ」ということだ。歌詞はただの話し言葉でもただの書き言葉でもない、ひたすら歌詞、歌という存在なのだ。ヒカルは歌詞を書いているのだ。(当たり前のことをしたり顔で言っています)

もっと言えば、宇多田ヒカル話し言葉も書き言葉、即ち芝居の台詞や日常会話や説明書や小説や広告や立て看板に溢れている言葉という言葉を総てパースペクティヴに入れた上で─つまり、自らの視野下に置いた上で「歌詞とは何か」について突き詰めて歌詞を書いている、のだと。従って、宇多田ヒカルの書く歌詞は、結果「歌詞でしか有り得ない」形態に落ち着いていく。

例えば『Play A Love Song』のお馴染みの一節、

『長い冬が終わる瞬間

 笑顔で迎えたいから

 意地張っても寒いだけさ』

これ、書かれた詩としてみると最初の2行から『意地張っても寒いだけさ』への移り変わりが唐突すぎて結構面食らう。音程なしで朗読しても、詩として読むか話し言葉として読むか迷うのよね。そもそも、この文章ってこれだけだと誰が誰のことを誰に向かって語っているのかよくわからない。

ところが、この歌詞をあのメロディに乗せて歌にして歌った途端、感情の流れが素直に入ってきてどんな顔してどこを向いてこえをだせばいいかがわかるのだ。文語的な『長い冬が終わる瞬間』から口語的な『寒いだけさ』までがスムーズにシームレスに繋がる。バックコーラスがあればより効果的だ。そこまで見据えてヒカルは歌詞を書いているから、逆にこの歌詞を話し言葉や書き言葉として抽出してしまうとしっくり来ない。つまり、歌として本当によく出来ている。歌って初めて活きる言葉それが歌詞というものだ。

松任谷由実は英国ロックなど(プロコルハルムのファンなのは有名かな)をルーツに持ちながら伝統的な日本語詩の世界観をPopsに組み込んで商業的に成功した掛け値無しの偉人・達人だが、そんな彼女にすら宇多田ヒカルの学究的創造力は「不思議」にすら映るのだ(16年前の邂逅だけれど)。ヒカルさん、伊達にタメ口で会話をしていない。この時既にヒカルは松任谷由実に対して対等以上の態度に出るだけのものはあったのだ。天才井上陽水をして「一緒に食事をしたら味が分からなかった(それくらい緊張した)」と言わしめるだけはある。年齢など無関係に、日本の総てのシンガーソングライターに対して宇多田ヒカルは「ヒカルパイセン」なのでありましたとさ。