無意識日記々

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ママはママのまま?

あら今日は十一月十一日で鮭の日なのか。ブログが横書きなのがもどかしいな。ではならば我々にとっては今日は「藤圭子の日」ですわね。異論は認めないろん。(いやそんなことないろん)(言いたかっただけ定期)

喪失感を克服したとかより、喪失感と共に生きていく決意をしたと言えるヒカルさんの作詞は、今後もずっと圭子さんと共にある。それはもう間違いないだろう。

ふと、「普段はどう呼んでるのだろう?」というのが気に掛かった。我々に対して語る時は『ママ』『母』『藤圭子』のうちのどれかという印象。細かいことだがヒカルさん、お母様は『ママ』と呼ぶのにお父さんの照實さんに対しては「パパ」じゃなくて『お父さん』なんだよね。ママとお父さん。日本で演歌歌手として一世を風靡した人をカタカナで呼んで、ジョン・レノンの最期の頃近所に住んでい人を和語で呼ぶのおもろいよな。そして孫が出来てからはグランパやじぃじやおじいちゃんて呼んでんのかな。どーだろなー。

で。圭子さんに直接会った時や心の中で思うときはどれで呼んでいるかな。やっぱ『ママ』だろうかなぁ。幾つになってもママはママ。ママのまま。

多分だが、どんなケースでも「純子」「純子さん」と呼んでない気がしてなぁ。ステージに上がってプロの顔をしている時は「藤圭子」で、普段接するときは「ママ」。となると本名で直接呼んでみる機会がない??

普段続柄で呼んでる人をいざ名前で呼ぶとなんか変な感じがする。いきなり他人になったみたい…とまではいかなくても、距離感や親密さが狂うというか。それを利用してツッコミを入れるとかはあるのだけども。…いかん、父や母の本名を書いて例を挙げそうになったぞ。書かんわっ。

ヒカルさん、母親との親密さを消したくないような気がする。どんな時であっても。「純子、唐突に面白いこと言うなぁ!」とかって言わないんじゃないかなと。「すげーな藤圭子」は言いそうだけども。単なる「ひかるさんと純子さん」て関係性になったこと、なれたことあんのかな?

その「ひっつき具合」だよね。愛情が強過ぎて深過ぎて離れられない。『道』の『You are every song』は強烈だった。作詞作曲と歌唱を生業にしている人がそう言い切れる存在の、なんと大きいことか。そんな存在を相対化して一人の大人同士として名前で呼び合うとか、してなかったんじゃないかなーと思っているのだが、どうだろう。

例えば英語の太陽、“The Sun”はややこしい。固有名詞なのか普通名詞なのか?よくわからないのだ。この地球のある太陽系の太陽は唯一無二なだけにね。はてさてそれはヒカルとか純子みたいな「名前」なの? わからない。そんな「太陽」に、いつもヒカルは母をなぞらえる。つまり、それほどに唯一無二で普遍的で一切変わりの無い存在なのだろう。ヒカルが『ママ』と呼ぶときそれは、我々が太陽を太陽と、“The Sun”と呼ぶのに等しいのだ。無ければ死ぬし、そもそも生まれてきていない。

名前と、呼び方の不思議。もう今日は「藤圭子の日」でいいよねやっばり。不世出の偉大なる歌手であり、宇多田ヒカルの母、ママである彼女の。

でもそうすると、『嵐の女神』で

『お母さんに会いたい』

と歌ったのはなぜだろう?

ぼくはくま』では切なく

『ママ!』

って歌ってるのに…という話はきっとまたいつの日にか出来ましたら。