無意識日記々

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ファンの局在と点在の話

ファンダムに居るとよく「周りにHikkiについて話せる人がいません!」という声を見掛ける。もう20年近くずっとそう。これは、毎度言ってるとおりファンクラブがなくファンダムの規模がかなり小さいため必然的なものなのだが、それに加えて前々回指摘したように、「クラスタで見てもわからないから」という理由が大きい。これが見つかりづらさに拍車を掛けている。

筆者が小中高生の頃を思い出すと、例えば洋楽を常に聴くような知人はクラスに2~3人程度だった。まだ学級規模が40人超の頃の話だ。なのでそういった友人知人は貴重ではあったのだが、他のクラスに行ってもそこにもやっぱり2~3人洋楽リスナーが居てくれてるので、クラスを横断しさえすれば5人10人と洋楽ファンを見つけていくのは容易かった。更に部活などの繋がりで先輩後輩も居るしね。まだ一学年5~6クラスの時代の話。

実際、洋楽を聴きそうなヤツってそれなりにわかる。英語の成績がよかったり、常にヘッドフォンを身につけていたり、カバンにGUNS & ROSESのステッカーを貼ってたり(笑)。それに、なんだかんだでよくつるんでいたりするので、人伝に知ることも容易かった。CD時代なのでCDを貸し借りできる相手が増えるのはデカかったのですよ。

てなわけで、クラスの中でのほんの数パーセントに過ぎない「洋楽ファン/リスナー」でも、なんとかして仲間を見つけることは出来たのだ。全く社交的でない性格の自分でもそんなもんだった。

恐らく、宇多田ヒカルを聴くリスナーも、多分実際にはクラス毎に1~2人は居るだろう。今の時代であっても。だが、ぱっと見じゃ全然わからないのだ。どういうタイプの人間が聴いているか、どのクラスタの仲間に声を掛けてみればいいのか、事前情報が全く役に立たないのである。「それっぽい人たち」が居ない。

運良く学級クラスの中で他のアーティストの話に続いて宇多田ヒカルの話が出て自分もよく聴きますなんて人を見つけたとしても、ここから先が続かない。他のクラスに居る宇多田ヒカルファン/リスナーは、これまた見た目では全然わからないからだ。やっぱり事前情報が全く役に立たない。結局、どこまで行ってもフリダシから仲間を探す羽目になるので全く効率がよくない。

では、と言って自分から周りにアピールしまくれば仲間を見つけられるかというと、これがまた一筋縄ではいかない。幾らクラスタを縦断・横断してファンを獲得していると言っても、それなりの傾向は存在するのですよ。それは、これも前言したように「孤独と向き合う(向き合える)」性向が、宇多田ヒカルファンにはみられるということだ。これは至極単純に、ヒカルの歌詞のテーマの主要な部分が「孤独について」だからで、これはもうアーティストシップそのものだから今更そうそう覆らない。結果「ひとりで(私だけの)ヒカルちゃんを愛します」という人が多く、なかなか自分からファンですとは名乗り出さない。これでは見つけようもないわね。

つまり、たとえ仮に日本の洋楽リスナーと宇多田ヒカルリスナーが同数存在するとしても、見つけづらさは宇多田ヒカルリスナーの方が遙かに上になってしまうのである。いうなれば、洋楽リスナーはクラスの中で“局在”していて、そこに辿り着けさえすればそこから(他クラスや他学年に)展開して同士を増やしていけるが、宇多田ヒカルリスナーはどこまでいっても“点在”しかしていないから、たとえ誰かを見つけたとしてもそこから展開していく力も弱い。結果、やっぱり「周りに宇多田ヒカルの話が出来る人がいない!」といういつもの事態がずっと起こり続けるのである。

これが曲単位だと話が変わるんだよねぇ。「『First Love』っていい曲だよね」という一言は、洋楽邦楽はおろか、普段音楽を聴かないような人にすら通じてしまう(少なくとも私の世代までは)。なので宇多田ってめっちゃ有名じゃん!とはなるのだが、熱心なリスナー/ファンとなると途端に見つけづらくなる。更にライブコンサートツアーも少ないとなると、点在するファンに巡り会う機会も滅多にない。やっぱり、手許のスマホを開いてインターネットで仲間を探すのがいちばん容易いということになる。我々がこうやって知り合えてるのは、ほんにテクノロジーの恩恵なんですな。ヒカル自身も含めてね!