無意識日記々

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何となく教授懐古話の続き。

坂本龍一といえばYMOのデビューや英米アカデミー&グラミー受賞のイメージが強い為80年代が最盛期と思われがち…でもない?寧ろ90年代以降の方がネームバリューは上がったかな? どっちでもいいや、兎も角、商業的なピークは90年代後半にあった。

まずは1997年、「坂本龍一 featuring Sister M」名義による名曲「The Other Side Of Love」のトップ10ヒットだ。これの何が凄いって、邦楽曲扱いのくせに全編英語詞だった事だ。つまり、本来英語曲を聴いてくれる洋楽ファンに向けたリリースではない上、普段「歌詞が英語だから」という理由だけで耳を傾けてもくれない邦楽ファンに向けたリリースだったのにオリコンのトップ10に入ったという真にアクロバティックな結果を残した曲なのだ。当時物凄くビックリしたのを覚えている。幾ら坂本龍一の名前を冠してるからとはいっても、結局はメロディの良さで受け容れられた感が強かった。なおこの曲には日本語バージョンも存在していて「砂の果実」というタイトルで中谷美紀が歌っている。

そしてもっと驚かされたのが1999年の「ウラBTTB」のミリオンヒットだ。何に驚いたってこれインスト3曲のシングル盤だったのよ。確かにリード曲の「energy flow」はCMソングとして流れまくってはいものの、インスト曲を高い金(定価1400円か)を出して邦楽ファンが次々と買っていったのはホラーに近い現象だった。ウィキペディアみたら4週連続No.1で10週連続トップ10、累計155万枚だったんだって。狂気の沙汰だね。

そう、坂本龍一は「日本語の歌しか聴かない」という層がメインの邦楽市場で「英語曲」と「インスト曲」という、ヒットを狙うなら真っ先に避ける2つの手法でそれぞれ大ヒットを記録したのだった。確かに彼はビッグネームだったが、言葉の壁を2つとも(他国語&無言語)超えて届く彼のメロディが如何に普遍的に美しかったかということだろう。

こんな凄い記録を持っているのにイマイチこの時期の凄味が後世に伝わってないのは、この2曲のリリースのちょうど間に宇多田ヒカルがデビューしたからだったりする。確かに「ウラBTTB」のヒットは凄まじかったが、同時期にアルバム『First Love』が「およげ!たいやきくん」を抜いてアルバム・シングル共通で歴代1位売上を獲得していた為チャート動向の注目はほぼ総てこちらに集まっていたのでした。ホント、全部押し退けてヒカルの報道ばっかだったね記録面では。

そんなヒカルだが、その「The Other Side Of Live」を歌ったSister Mさんとはお知り合いだ。皆さんも御存知ですかね、坂本龍一矢野顕子の愛娘であらせられる坂本美雨その人の別名だったのですよ。

ってヒカルと美雨さん友達の筈なんだけどそういう文字の記事出てこねーな?? 確かヒカルは口頭で「美雨ちゃんとはともだちで」って言ってた気がするからソースは音声のみかもしれない。どこでだっけかな。インスタライブだとすると探すの大変なので今回は諦めるわ。

どのタイミングでこの2人が知り合ったのかは正直わからないが、矢野顕子とはもっと前に連絡を取り合っていたのではないかと思う。というのも、2004年の『ヒカルの5』で起用したドラマー、クリフ・アーモンド(ds)はこの頃矢野顕子とトリオを組んでいたからね。だから矢野顕子に一言断りを入れたのではないかなと。この時に家族ぐるみでヒカルと矢野顕子坂本龍一坂本美雨と知り合ってた可能性もある、かもしれない。でも、2004年当時はそんな話出てなかったかんなぁ…。

という感じで、そこまで近い関係ではなかったけれど無関係でもなかった宇多田ヒカル坂本龍一。本当に数少ない、ヒカルとライバル意識を持ててたかもしれないミュージシャンがこの世を去った。悔しいねぇ。一度でいいから何らかのコラボレーションがみてみたかったな。『FYI - Merry Christmas Mr. Lawrence』を聴く限り、メロディの相性は結構抜群だったと思うから。