無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

a collage of dreams

17年前の『ULTRA BLUE』を聴いてると「随分ズレたな~」と感じる。何の話かといえば“Pop”の軸、リスナー側の中心線みたいなそんなイメージが、だ。

ヒカル自身はブレてない。音楽性が多岐に渡るのを自らの歌声で纏め上げてる為金太郎飴状態でもない。「宇多田ヒカルの全体像」をコラージュかパッチワークのようににひとつひとつバラバラに埋めていってる最中、といったところ。

本来的に“Pop”の軸は変わるものだ。それは属人的ですらある。古賀政男の時代だったり筒美京平の時代だったり小室哲哉の時代だったり秋元康の時代だったり…今はYOASOBIの時代?かどうかはまぁ10年後とかに振り返るとして、売れてるものを追随する現象を是とする限り時代は斯様に移ろいゆく。そこからみたとき、17年経ったのはこちらの方であって『ULYRA BLUE』は『ULTRA BLUE』のままであった。

宇多田ヒカルの時代」があったのかというと難しい。どちらかというとケイト・ブッシュやシャデーみたいな感じで、知名度は高いし出せば売れるのだけど一部のフォロワーを除けば「あそこらへんでなんかやってる」人でしかない、という状態でずっと来ているような。ただ、全く時代に左右されないともいえない。そんな仙人みたいな人がネトフリとかUber EATSとか歌わんもんね。

そこの独特な「揺らぎ加減」が、『ULTRA BLUE』と例えば『BADモード』では随分違う。今聴く『Passion』の曲構成、当時は大胆だったけど『BADモード』に組み込もうとしたら寧ろ「普通」の方に分類されてしまう。ただ、今聴いてもPopかというと少し違う。隣に同じくキンハの『Face My Fears』を持ってくるとよくわかる。寧ろ『Passion - Orchestra Version -』の方が親和性が高いという謎の逆転現象。

この違いや成長をつぶさにみようとしても、とても入り組んでいてわかりづらい。一定の方向性に沿って進化してきたというのではないからだ。目的的ではない、とでも言えばいいか。理想を追う、という姿勢が余り見えない。シンプルに言い切ってしまえば夢がない。

だが、夢想的な瞬間というのは何度も来る。『Making Love』なんかは最後の最後で『もう起きなきゃ』と今まで眠っていた事に気づかされるのだ。どこまでが夢かもわからない。

「なぜ現実世界で目標を持つことと夜見る景色の両方を同じ“夢”と呼ぶのか?」とは日本語に限らない問題らしい。特段の目標意識の無い人が夜見る夢についてはよく語る(割にみるのは悪夢だったりするのだけど)のは示唆的だが理屈としてはまだ弱い。やはりまだ単に1枚の絵を描いてる最中でしかないというイメージの中で、揺らぎというのはそこでの単なる偏りに過ぎないと解釈するのが妥当なのかもしれない。今朝のこの日記のようにね。