無意識日記々

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夏の雨雫と涙の一滴

苦難に満ちた雨や優しく癒してくれる雨が降り注ぐ中、特異な存在感を示してくれるのが『SAKURAドロップス』で歌われる

『降り出した夏の雨が涙の横を通った すーっと』

の一節だ。名文だらけの宇多田ヒカルの歌詞の中でも詩趣という点では卓越したこの一行。何が起こっているかといえば、読んだ通り、歌の主人公が泣いて涙を流した瞬間に夏の雨が降り出して、涙と軌を一にして主人公のすぐ傍を雨雫が落ちていった、とそういう歌詞である。

主人公は悲しくて泣いているかもしれない。苦しくて泣いているかもしれない。失恋の歌だからね。ならばこの夏の雨雫も他のヒカルの歌と同様悲しみや苦しみの表現かというと、それは少し違う気がする。また、涙の隣を通るだけで、それを洗い流すとか紛れてわからなくするとか、そういうのでもない。ただ単に、「同時に起こった」という「シンクロニシティ共時性)」の表現である。そのニュートラルなフラットさが他の歌の雨と違う所だ。

真偽は別にして、「何かを持ってる人」というのは大自然の動向と感情がシンクロしやすい。俗に言う晴れ女とか雨女とかの“信仰”も、その人がお出掛けをすれば晴れるとかそういう話だ。『SAKURAドロップス』で描かれているのもそれに近く、「私が泣く時、天もまた泣いている」ということだ。

そんな大仰な言い方をしたと詞ても、現実にはそれは錯覚でしかない。天気は私の気持ちなんか考えやしない。しかし、シンクロニシティとは、それが“実際に起こってしまった瞬間”には、何か特別な事が起こったのだと信じてしまう。繰り返しになるが、事の真偽は関係ない。ただその一瞬に信じた感覚自体が大切で、だからこそ詩趣に富んでいるのだ。

理屈っぽくなった。夏の雨雫と歌の涙の軌跡が重なったあとすぐ歌われるのは

『思い出とダブる映像

 秋のドラマ再放送』

である。雨と涙のように、思い出とドラマもまたシンクロして軌を一にする。そして

『どうして同じようなパンチ

 何度もくらっちゃうんだ』

と畳み掛ける。「同じであること」「重なること」を強調する為に夏の雨と涙からここまで数十秒でもってくる手腕には惚れ惚れするわね。

これと同様のテーマを歌ったのが『君に夢中』の

『Ah まるで終わらない deja vu

の一節。恋をする度に、何かとシンクロする感覚が止まらない。あの、ふわっと異なるもの同士が重なる感覚を、あのフィーリングを、宇多田ヒカルは様々な言い方で表現する。その最も詩的な一行がこの『SAKURAドロップス』の1番Aメロの歌い出しなのである。比喩というより、感覚を表現する為の一助として『雨』を用いた特異な例なのだ。またこういう使い方もみてみたいものですね。