無意識日記々

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で。何故原作漫画も読んでいないアニメも観てない私が大沢たかおを「怪演」のみならず「ハマり役」とまで称したかといえば、彼がこの「キングダム」の世界観の体現者となっているからだ。

映画で(定番でありながら)戦争を題材にした娯楽大作を生み出すのは殊の外難しい。リアリティを追究し過ぎてしまうと余りに現実は凄惨過ぎて目を覆い背ける映像が出来てしまうし、荒唐無稽に過ぎると「なんでもありかよ」と醒めた目で一瞥されるだけとなる。そこ間の何処か─リアルとファンタジーの絶妙のブレンド具合─を見極めて作品の隅々まで行き渡らせる事が肝要なのだが、その実作業の大変さを思うと目も眩むようである。

大沢たかおは、この「キングダム」におけるそのリアルとファンタジーの配分を最も見極めているようだ。そもそも漫画原作の実写化なのでリアルとファンタジーの配分は異なるのが道理だというのにその微調整の精度と来たら一体どれだけ作品を読み込んできたのやら&御芝居の経験値を溜め込んでいるのやら。喜劇性と悲劇性、シリアスタッチとギャグタッチ、残虐性と理想論…様々な二律背反の落としどころを見極めて現実の演技、台詞回しや表情や仕草やメイクや衣裳といった実際のファクターに落とし込んで、その集大成をフィルムに焼き付けこちらに届けてくれた手腕とセンス。キングダム2作を通して観たとき、そういった二律背反の中心に彼の演技はあったのだ。彼を見ればこの作品の何たるかがわかる。ならば私が原作を一切知ってようが知らなかろうが彼はハマり役でしか有り得ない。ここまで徹底できた人間が役作りに失敗している筈がないからだ。

この「世界観の見極め」、ヒカルさんも物凄く上手いのですよ。例えば『君に夢中』。タイアップ相手のドラマ「最愛」序盤の脚本を読んだのみで仕上げたというのに終盤になるにつれますます内容とその歌詞のシンクロ率が上がっていった。すわ千里眼の持ち主かと呪術的魔術的特性を付与したくもなるが否や否。寧ろ徹底した地道な考察の結果だろう。

ヒカルは最初物凄く広いパースペクティヴから入る。世の中の様々な「物語」…小説や漫画、ドラマや映画や演劇などなど…全体を見通せる所から始めて、タイアップ相手の世界観がそのパースペクティヴの中でどこら辺に位置するのかを見出す。そこから脚本家の力量と照らし合わせ、この設定の前提から導かれるであろう結末、即ち物語の主題の帰着がどの範囲に落ち着くかを察するのだ。大雑把に言えば、あぁこの登場人物がこの世界で動いたら単なるハッピーエンドでは終われないな、とか余韻を残して終わった方が綺麗だなとか、謎をキッパリ解決した方がいいなとか、理念を押し出すか現実に折れるかとか、そういう可能性の数々を論理的に考察比較検討して全体の流れを把握する。そういった作業を経て、僅かな脚本の情報から歌詞の方向性を定めている…のだと私は踏んでいる。

もしヒカルが今回『Gold ~また逢う日まで~』の歌詞を「キングダム」の世界観に合わせて書いてきたとするなら、それは大沢たかおに負けず劣らずの「世界観の見極め」を経たものになっている筈だ。それは、ヒカルの手法からすれば、別に「キングダム」全巻読破が絶対必要とかではないのだ。既刊68巻だからね…読むの大変だよね…ヒカルが元々読んでたならいいんだけど。

で。それに於いて、大沢たかおの徹底ぶりと比較した時に一体どんな対照になるのかというのが前回述べた不安と期待なのである。あれに優るのは並大抵では無理だ。別にそういうところで勝ち負けを論う必要もないのだけど、彼の怪演振りをみてヒカルがより奮起したのなら面白いことになっているだろうことは期待できる。真正面からインパクト対決をするのか、それとも今聴けている約50秒の落ち着いたトーンで纏めてくるのか。その選択からしてスリリングなのですよ。ほんに王騎は格好の好敵手であろうなぁ。