無意識日記々

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いつどこで『逢う』のか

『Gold ~また逢う日まで~』というタイトルを最初に目にした際、『~また逢う日まで~』の部分に対して瞬時に「尾崎紀世彦かよ!」とツッコんでしまったが、穏当に順当に考えればこのタイトルは歌の歌詞の内容を反映したものとなっている筈だ。例えば

『いつかまた思い出話する日の

 花になる迄』

ここなどはまさに、「いつかまた逢う日があったならその時は思い出話に花を咲かせましょうね」という意味で歌われていると思われる。「だから暫しのお別れをしましょう」というのがその続きに含意される。

タイアップ相手の「キングダム」が中国の戦国時代を描いたものだから「またお互いに生きて帰って来ような!」という誓いの言葉なのだと解釈出来なくもないが、そこは宇多田ヒカル、己が作風は一貫させているのではなかろうか。単純に言えば、「普通に現世で再会できはしない」のだ。

例えば『大空で抱きしめて』の歌詞。

『いつの日かまた会えたとしたら

 最後と言わずにキスをして

 もし夢の中でしか会えないなら

 朝まで私を抱きしめて』

この『いつの日かまた会えたとしたら』は、もう殆ど「会えるはずのない相手」に対して歌われている。何しろすぐさま『もし夢の中でしか会えないなら』と歌っているのだから。叶わぬ願いを口にしたいだけさってことだわね。同じく『真夏の通り雨』でも

『夢の途中で目を覚まし

 瞼閉じても戻れない』

と歌う相手は夢の中でしか逢えない人だ。現実の世界では、逢えない。

だからこの『Gold ~また逢う日まで~』では、この『また逢う日まで』は、もしかしたら「いつの日か夢の中で逢いましょう」という意味なのかもしれない。つまり、現世ではもう逢えないのだと。

そして、宇多田ヒカルの歌詞の真骨頂といえば転生観だ。2006年当時自ら最高傑作かもと称した童謡『ぼくはくま』でも『ゼンセはきっとチョコレート』なんて風に歌われている。なお前世の表記がカタカナなのはNHKの中の人の所為なのでヒカルからしたらやや不本意だろうがJASRACに登録されてるのがこれなのだから「正式な表記」としてはこう書くしかない。…ん~、でも今後は考えるか…。

『Goodbye Happiness』や『Forevermore』など転生観が色濃く出ている歌は幾つかあるがその中でも強烈なのが『Hymne à l'amour 〜愛のアンセム〜』だ。

『いつか神様があなたを

 遠くへ連れて行っても

 かまわない

 私も逝くから

 名も無い魂が歌い始める

 生まれ変わっても

 あなたを愛したい

 あなたにかえりたい』

何が強烈って、オリジナルの“Hymne à l'amour”の歌詞でも「私も逝く」までは同じなのだが、そこでは特に生まれ変わりはしないのだ。キリスト教圏らしく「死んだ二人は永遠になる」と歌われている。しかしヒカルは仏教的な転生観をここに敢えて持ち出して『生まれ変わっても』と独自の歌詞を歌った。斯様に宇多田ヒカルの輪廻転生観は徹底しているのである。

以上を踏まえると『~また逢う日まで~』というフレーズは、

「また夢の中で逢う日まで」

か、若しくは

「生まれ変わってまた逢う日まで

のどちらかの意味で歌われる可能性が高い。「キングダム」が「普通に現世で再会できないストーリー」になっているかどうかは、今のところ私は知らないのだが、多分当たらずとも遠からずになっているんじゃあないかな~。