無意識日記々

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有楽町わず。

いや献血ルームに行ってた訳じゃないぞ。もう閉まってる時間だった。「この先の建物か〜」と横目に見ながら東京国際フォーラムDEF LEPPARD公演に行ってたのだ。いやよかったよ。

LIVEの詳しい感想はまた他所で書くとして、2点だけ。

・ソールドアウト公演だとファンの密度&熱気が桁違い。
・スタジオバージョンで既に歌が下手だと期待しない分生歌に落胆しない。何度もずっこけたけどね。

1点めは宇多田ヒカルのようなアーティストは例外的に当てはまらない。というのも、同じソールドアウトでもヒカルの場合悉く抽選である為、ファンの密度・熱気即ち濃度に直結しないのだ。

ソールドアウト公演で濃度が高まるのは来る人たちが早い時期にチケットを購入する積極的な層が選抜されるからだが、純粋な抽選では濃度にほぼ影響がない。ライブハウス公演ですらやはり抽選だから、こういう"異様な熱気"は、ヒカルのLIVEではみられないものだった…

…と一瞬思ったが、ひとつ例外があった。In The Fleshだ。あれは殆どがソールドアウトかそれに準ずる売れ方をしたらしいが抽選ではなかった。自動的に熱心なファンだけが選抜されていた可能性が高い。もしかしたらあの盛り上がりは、ただ初の米国公演だったからというより、ファンの濃度が高まったからだったという事もあるかもしれない。

となれば、もしかしたら日本国内でもファンの濃度が高まった公演が実施されるとすれば異様な盛り上がり方をするLIVEも実現可能かもしれない。尤も、ファンクラブを作る気がない光がそういった公演を望んでいるかといえば否という気もするが。

2点め。ジョー・エリオットは元から歌が下手だから、LIVEで音痴でも裏切られた気分にはならなかった。ハードルが異様に低いのである。しかし、ヒカルの場合明らかにベストテイクをスタジオ盤に収録している。LIVEでの再現性を度外視して完成度を高めている為、LIVEでその完成度を期待するファンがあとを絶たない。何無理言ってんだとウタユナの頃は思っていたが、Wild Lifeまで来るとなんだかその無理が普通な感じになってきたから困ったものだ。最近の光は生でちゃんと歌えすぎである。

いや、長いツアーを総てベストで、とはまだいっていないのかもしれない。あれだけ常に好調が伝えられていたIn The Fleshも、肝心の収録したNY公演は若干調子が悪かったようだ。まぁ同じ場所でコンディショニングするなら兎も角、初めて訪れる地で喉をキープできるかどうかなんてギャンブルである。世界ツアーともなれば時差もあるのだ。運次第といえるだろう。

光の喉の負担を減らすには、スタジオ盤であまり無理をしない、というのもひとつの方法ではある。が、それはやはりLIVEという場をどう捉えるかというアーティストシップに関わる問題だ。

光が人間活動に従事している間に音楽業界は、音楽メディアは、音楽ファンはどう変化するか。スタジオでの緻密な音作りが重視されるようになっているのか、それともLIVEコンサートにより重きを置くようになっているのか。そもそも、光はどうしたいと思っているのか。

人間活動を通じて「外に出る」事に重点が置かれるようになるなら、LIVEをより重視してくるようになるだろう。それとともに、楽曲制作のアプローチやサウンド作り、歌唱の難易度などに変化があるかもしれない。逆に人間活動で「外に出過ぎて」、スタジオに戻る頃には反動で引きこもって緻密さが倍増しているかもしれない。現時点ではどうとでもとれる。光自身も、そんな先の事はわからないんじゃないか。

まぁ、筆者としてはどちらでもいい。折角同時代に生きているのだからLIVEを重視して欲しいとは思うが、インターネットのお陰で"LIVE"にも幅が出てきた。同じ時間同じ場所である必要があった"LIVE"も、今や同じ時間に異なる場所であってもLIVE感が伝わるようになっている。

寧ろ、LIVE感で大きくなってくるのは場所が同じかどうかというより"空間の感覚"である気がする。そこに感じる広さや広がり、その広がりの先や端は真ん中に在る人の貌、そういった空間感覚が重要になってくる。もし今後"真の"3Dメディアが発達したとして、そういった空間感覚まで"違う場所"で共有できるようになれば、音楽自体も大きな変革期を迎えるかもしれない。

いやまぁでも、流石にそれは何十年もあとのことになるだろうかな。それでも、宇多田ヒカルが現役のうちにそういう時代が到来する可能性は、頭の片隅に置いておいてもいいだろう。