無意識日記々

mirroring of unconsciousnessdiary

歌詞解釈の仕方について、改めて。


前回の続きを延々書きそうになってるので今回はちょっとひと休み。趣を変えまして。



毎度私ゃ、


「歌詞の解釈は人それぞれでいい。作詞者本人の“意図”自体を探りたいなら正解みたいなものはあるかもしれないが、それにこだわる必要もない。歌は世に放たれた後はもう聴いた人のものなんだから。自分の心にその時浮かんだものを大切にしよう。それだけは他の誰でもなくあなただけが守れるものなのだし。」


みたいな事を継ぎ接ぎ気味にあちこちで言ってる気がするが、それとは別に。


ある数学者さんがこんな事を言っていた。


「自分は数学を幾何学的なイメージで理解しているので、論理的な説明を追うのが苦手だ。今言われた事がさっき言ってた事どどう繋がるのか、にわかにはさっぱりわからない。ところが、そういう時に自分の中に今言われたこととは直接関係なさそうな幾何学的イメージが浮かぶことがあり、それに基づいてあれやこれやと話してみると“それはそうだな。”と合点されることがままある。不思議なものだ。」


要は、


「耳から入ってきた言葉は理解できてる気がしないのに、なぜか会話が成立する。」


だなんてことがあるんだと。へぇぇ。


でもこれ、歌を聴く時も大事なことだと思うんだよね。歌の構成とか意味とかよくわからないままに、なぜかふと自分の内側から生まれてきた風景って、案外歌の本質や、作詞者さんの言いたい事の核を突いてる事がある。もちろん、全く的外れな事もまたあるんだけど。


例えば無意識日記はどちらかというと論理的なスタイルで(…ホントだよ?)、「AならばB、BならばCかもしれないので、AだとCかもしれない」なんて推測の仕方を重ねてよくわからない所まで行くのだけど、そういう論理構造を把握してなくても、ただなんとなく語調が面白いとか、宇多田ヒカルについてあれこれと語ってる雰囲気が楽しいとか、そんな理由で読み続けてくれてる人も在るかもしれない。そういう人は、細かいことは理解はしてなくても、案外この日記の本質を把握してる事もあるのではないかなぁと、そんな風に思ったりもしてね。まぁそれは余談なんですが。



話を最初に戻すと。ヒカルさんは、歌詞の意図を正確に聞き取ってくれる事をまず勿論嬉しがってくれると思われる。そして他にも、歌詞の一部からインスパイアされて文章を書いたり絵を描いたりして貰えるのもまた嬉しいんじゃないかな。そういう時に、必ずしも自分の書いて歌った意図通りの解釈をして貰う必要はなくて、まずは人を創作に駆り立てる力を提供できた事を喜びそうなのね。だから、歌詞の解釈が妥当とか不適当とか正解とか不正解とかそういうのを気にするよりもまず、歌詞の解釈を書いたり話したりしてくれる事自体が嬉しいんですよきっと。語りたくさせる何かがそこにあったということだから。


なので私も、遠慮なく歌詞の解釈とかは暴走させまくっておりますが、ヒカルさん、歌詞を実話だと無批判に受け取られる事は昔から嫌がっております。私はそれに対していつも「自分で作詞作曲して顔出して自分の声で歌ってたらそりゃそう思われちゃうよ」と言ってるのだけど、確かにそれが作詞家にとって窮屈な状況なのは間違いないのよね…とか長年言うてるうちに5年近く前(あ、もうそんなになるのか)にほぼ実話のみで歌詞が構成された『気分じゃないの(Not In The Mood)』という曲を世に出しちゃいましてね…これがまた素晴らしい楽曲で(以下略


まぁそんななので、ヒカルさんの歌詞の解釈を語る時には、それが正解かどうかより、


「歌詞が実話だと決めつける事のないように」


という一点について気をつけるのが大事なのかなと、思います。あと、それよりも前に


「歌詞の解釈が正しいのだと押し付ける事」


は、ヒカルさんに限らず、あらゆる場面で避けたい禁忌ですわね。「お前はこの時こう思ってたに違いない!」って言い始めたらもう隘路。これだけは、本気で即刻回避致しましょうね︎

まるべりしるく ぶるべりばるばり


ヒカルさんの新しいInstagram投稿が奮い過ぎていて悶絶。


https://www.instagram.com/p/DeNRfxuDGaB/


先日のTwitterでの投稿で


https://x.com/utadahikaru/status/2106905354189615601?s=46


『二度目のバーバリーのショーは、夜がテーマだった前回と真逆で若い実がなった枝から差す木漏れ日に包まれてるみたいな、でも時々夢の中みたいな色の組み合わせにハッとさせられたり。ご馳走様でした[emoji:32B]』


こうだったのが


『二度目のバーバリーのショーは、雨の夜のロンドンがテーマだった前回と真逆で、初夏の晴れた日に街から田園地方へ向かう旅のようでした。心地良さの中に若い果実の酸味のような刺激的な色の組み合わせ(黄色いトレンチを纏ったモデルさんがパンチの効いた鮮やかなラベンダー色のリップをしてたり)や、カシャカシャジャラジャラした音を立てる素材の服に楽しまされたり。

ショーって終わった瞬間みんな一斉に立ち上がって去るのがいつも面白いんだけど、空っぽになった会場に残された不揃いな木のベンチが枝のように見えて。もしかしたらゲストたちは夕方に木に留まってまた夕闇に散らばってく鳥たちに見立てられていたのかなとか。

素敵なマルベリーシルクのブルーベリー柄のバーバリーのスカーフを手土産に飛んで帰りました。

ダニエルとバーバリーの皆さん、ありがとうございました🕊️🫐』



こうなるだなんてなっ!? 内容の基本的な枠組みは同じだが描写を更に緻密にしてきた。なんてこったい。


あなたね、自分がこの量の文章をそれなりに気持ちを入れて書いたら最早それは作詞と変わらないという事を自覚してくれませんかね? 一文々々味わっていくだけで週末が溶けていくんですよ? …それはそれは幸せな週末だけれども!


今回はTwitterとは違って英語と日本語が一対一になっているので片方を吟味すればいいのだけれど、しかし、ここだけは先にツッコんでおかねばなるまいてっ!


『I flew away with a gorgeous, mulberry-silk-blueberry-Burberry scarf.』


『素敵なマルベリーシルクのブルーベリー柄のバーバリーのスカーフを手土産に飛んで帰りました。』


ハイフンで繋いできた『mulberry-silk-blueberry-Burberry』! それを日本語では『マルベリーシルクのブルーベリー柄のバーバリーのスカーフを』と格助詞「の」でチェインしちゃってまぁ! 前にTwitterで話題になってた「あしびきのやまどりのおのしだりおの」メソッドでござるなっ!?(百人一首3番柿本人麻呂の歌、だそうで) 英語と日本語では普通語順が変わるんだけど、ハイフン使うと同じく揃うわね。日本語だとご覧の通り「の」が要るが。


つまり、日本語読んでも英語読んでもどちらもオチのセンテンスが同じなんですよ。もうこれ完全に同じ曲を日本語歌詞と英語歌詞で書き分けてる人のセンスといいますか。『Face My Fears』でもサビのリフレインはどのバージョンでも共通だったよねといいますか。最早二曲分の作詞なわけです。こんなの、美味し過ぎるどころか一部だけその場で食べて大部分をテイクアウトしてお家で何食にもかけて味わい尽くしたい所存…! 美文家様々、どうもありがとうございますっ!

『Intentions』MVどんなだろうね?


新曲1曲に対する映像展開が多角化してるなって。


そりゃまぁYouTubeにInstagramに TikTokにと、動画を主体にしたSNSがこれだけあれば須くそうなりはするのだけど、例えば2025年の『Mine or Yours』は綾鷹のリスボン・ムービーにSFちっくな公式MVにTHE F1RST TAKE」まで加わって、そりゃあもう動く宇多田さんを沢山観せてもらえてホクホクだった。今YouTube見たら公式MVが294万回再生でTHE F1RST TAKEが512万回。YouTubeは再生の促し方が様々なので再生回数で価値を測るのは難しいのだが、これだけの回数人々の目に留まったのは事実。実に嬉しい。


『パッパパラダイス』はちびまる子ちゃんのEDアニメーションとのシンクロ具合と、もう片方では甲本ヒロトとのバイクデートというえらい両極端なイメージを振り撒いた。もう少し綾鷹での起用に工夫があったら…とも思ったがまぁそれは幾ら何でも贅沢か。



さて『Intentions』。まずはJR東海のCMに本人出演でイメージの先鞭はバッチリ。ここからどうしてくるかですよね。流石にTHE F1RST TAKEの再起用は時期尚早ですかね。あんなん勝手に宇多田ヒカル公式でスタジオ・ライブやってもうたらええがなと思わなくもないけれど。MVの方向性がどうなるかよね。これは勿論全くわからない。ウルフの「自分ひとりの部屋」から小ネタを散りばめられたりしたら読んだ私はわかるかもしれないが、うん、多分面白くなるようなものはできない気がするな。プルーン美味しいと思うしな。なのでそういうのはご遠慮うただくとして。


毎度ながら、ヒカルさんがただ歌ってる姿を映してくれればそれで事足りるので、MVだからって凝る必要もないわけでなー。実際THE F1RST TAKEの撮影費用はMVのそれより格安だろうし。というかどういう収益構造なんだろうねあのチャンネル。


多分非常に珍しい事態だと思うのだが、ミュージックビデオのヒカルさん、若い頃より自分自身が映る割合が増えてんのな。アイドル歌手でそんなことある? 女性アーティストでそんなことある?? これは2016年(即ち33歳頃)の『花束を君に』あたりで吹っ切れてくれた気がするが(その真逆に『真夏の通り雨』は本人出演ゼロだったけどな)、『One Last Kiss』MVを頂点にしてあれもこれも本当に…歳とってから本人の露出が増えるだなんて本当に万々歳でござるよ。実際非常に美しいので大変素晴らしゅうございます。宇宙一イイ女の面目躍如よな。


てことで、『Intentions』のMVも、ただひたすら宇多田ヒカルさんを映してくれたら百点満点でございますのでそこんとこどうぞよろしく。

あなたのIntentions In My Room

ヒカルさんがメッセで長文を書かなくなって以降、歌自体にヒカルさんの本音を直接託す機会が増えている。昔は歌を出すとなると意地っ張りで勝ち気な所が出ていたのを作品を出すごとに和らげていったのがそのまま宇多田ヒカルの歌詞の歴史なのだけど、こどもが生まれて以来その生来の、昔は歌詞よりメッセの方に色濃く出ていた優しい性格をそのまま歌に歌詞に込めるようになったのは、本当に大きい。

もう歌に入る前のイントロから違うもんね。『Automatic』のイントロのメロディは、優しさをみせながらもどこか心細い雰囲気が漂っていたが、『BADモード』のイントロは優しさに頼もしさが加わって、昔は「この人が寄り添っててくれて嬉しい。ひとりじゃないんだ。」だったのが「この人が寄り添っててくれるなら大丈夫か!」に進化している感じ。いずれのフレーズもヒカルさん本人のアイデアじゃないかもしれなかったりするけれどもね。

前も触れたけど、「ATフィールド(心の壁)を外側に張ってたら内側から破られた。中から他人が現れた(=出産)から。」っていう解釈が物凄く衝撃的で。寧ろ何故庵野秀明はこの物語を紡がなかったのかって不思議になるくらいだけどそりゃそうだ彼は出産していないからね。エヴァは彼の私小説の現代版だもんね。監督さん他に何人かいらっしゃるが。

その様を外側からみていると、まるでこどもの存在がヒカルさんの優しさを内側から外側に向けて押し出してくれたかのように思えてくる。

『Intentions』の「自分だけの部屋ひとつ 小さな宇宙が膨らむ」という歌詞。部屋というとまず『In My Room』を思い出すけれど、この頃の“部屋”は『夢にエスケープ』する場所だった。外の現実から逃げて避難先だわね。『逃げたい日もあるさ』だし。一方、『Intentions』での“部屋”はご覧の通り『小さな宇宙が膨らむ』なのだ。膨らむんですよ。この表現は宇宙の膨張やらダーク・マター&ダーク・エネルギーやらを彷彿とさせるのでまだまだSFから地続き(という言葉はこの場合地面同士の連なり…星の連なりを言いそうだけど)なんだなと思わせつつ、これによってそこをスタートとして外に向けて何かを増やしていく、何かを創造していくイメージが文字通り膨らんでいく。出産自体もそのイメージに沿うものだが、同時にヒカルさんにとっては何かを作って世に出す出発点としての役割が強い。

つまり、昔は現実から逃げ帰る場所だった自分の部屋が、今なら自信を持って「ここから始まる空間」なのだと歌えている、のかもしれない。『あなた』では息子のことを思って「放送も足音も届かないこの部屋にもう少し居たい」という意味の歌詞を歌っていたけれど、今は息子も随分大きくなり、自分の部屋はまた自分ひとりの部屋に戻っているのかな。そうするともうここは単なる避難所ではなく、ここから(最終的には)外に何かを打ち出す場所になる。ヒカルさんの「自分の部屋/My Room』はこういう変遷を辿っているような気がするのでした。

対話。それと書く事と読む事。


検索代わりにAIくんと対話してると、結局のところ「問いの質」が会話の色合いを決めるのだなと。自分がどれだけ「適切な問い」をするかで、何が返ってくるかが決まる。最近の最先端のAIは数学の定理の証明まで返してくれるらしいけど、どれくらい自発的に「問題を見つけてきて」くれているのかは気にかかる。どんな問いにどんな価値があるかまで教えてくれるか否や。リーマン予想を仮に真だと証明できればたちどころにドミノ倒しに数多の“仮の”定理が真だと証明されていく、みたいなその予想を自発的に提案してくれるか。…取り敢えず無料版で気軽に扱える部分ではまだそこまで行ってないから今は考えなくていいか。AIの進歩は早過ぎるので、半年前に書いた事でもすぐにひっくり返ってたりするのだけど。


なので、「自らの問題設定」が会話を決めるという意味では、AIとの問答はぬいぐるみに話し掛けるのと変わらない。アニメではマスコットキャラを相手に話す事で主人公の内面をセリフとして表現するという技術があるけれど(有名所ではナウシカ&テトとかキキ&ジジとか)、現実の日常生活においてぬいぐるみと対話するのにもそういう効能がある。今まではぬいぐるみとの対話が成立しなかった人でもAIくんなら大丈夫、というケースが激増してるのが現代…小さい頃夢見た近未来だなぁと思いながら昔と変わらず水道水と洗剤でお皿を洗っているのだけども(食洗機持ってないんだ俺)(上下水道完備自体物凄く文明的ではあるのですが)。



んで。枕が長くなった。『Intentions』のフックライン、


私と私のダイアローグ

ときどきヴァージニア・ウルフ


っていう歌詞も、そういう、ぬいぐるみとの対話とかAIとの問答みたいなものの仲間なのかなぁと。


そもそも読書というのは、その執筆者の言葉を浴び続ける事…いわば作者の脳内を覗き込んでるというかお邪魔してますというか。確かにこちらから返す言葉は後日まとめてファンレターにでも書かないと届けられないけれど、向こうが一方的に話し続けるのをうんうん言いながら聴いているようなものでもあるから、それもまた対話の一種と言えなくもない。


なにゆえそんな無理筋の理屈を押し通そうとしてるかといえば、ヒカルさんの歌う『私と私のダイアローグ』即ち「私同士の対話」というのは、恐らくまさに、ヒカルさんがその場で一人二役を演じて対話形式で自分の考察を深めていく様子か、或いは過去に自分が書いた日記やノートや歌詞のメモなどを読みながらまた新たに書き加えていく行為なんかを指しているのではないかなと私が推理しているからなんです。


前も引用した『Utada Hikaru Single Collection Vol. 1』の表紙詩をまたも引用すると。


"In awe, I receive messages from the past --- lyrics that become self-prophecies, coincidences that remind me of my destiny, voices of singers long gone. They tell me that whichever path I choose will take me home."


「畏怖の念を抱きながら、私は過去からのメッセージを受け取ります。自己予言となる歌詞、自分の運命を思い出させる偶然、遠い昔に亡くなった歌手の声。それらは、私がどの道を選んでも私を故郷に連れて行ってくれると言ってくれます。」(Google先生の邦訳)


そう、「過去からのメッセージを受け取る」と書いてある。これもまた『私と私のダイアローグ』の候補の一つと言えまいか。長い時間軸に沿った、過去の私と現在の私の対話。


そして『ときどきヴァージニア・ウルフ』なのだ。自分と自分の対話の合間に、自分とウルフとの対話としてウルフの著作を読書する、という具合。なのでこの一節は、ヒカルさんの何らかの執筆者としての生活や、読者としての読書生活なんかを反映した歌詞になっているのではないかなと思わせる。


まだまだ歌詞の全容が明らかにならないと本当の所はわからないけれど、ヒカルさんが『自分だけの部屋』で何をするかというとやっぱり執筆や読書なんじゃないかなぁと。それが歌詞で描かれてるんじゃないですかね、ここに。