無意識日記々

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今年の八月は夢花火?

今日は立秋。……だったのだが、私、今日当日になるまで明日が立秋だと思い込んでた。去年が8日だったから。ちゃんと毎年確認しないとダメねぇ。

という訳で今日から秋が立ち上がる。つまり暑さのピークの日、最も夏らしい一日だったということだ。ここからは少しずつ夏らしさが薄れていく。となれば我々は、「夏が過ぎ 風あざみ」と歌い出すあの歌を季節と同調しながら楽しめる時期を迎えるのだ。「少年時代」の季節ですね。

しかも今年からは、真新しいヴァージョンで聴けるのですよ。去年までは『20代はイケイケ!』の二十歳の誕生日の時のテイクをDVDを引っ張り出してきて観ないといけなかったが、今年の夏からはサブスクでもヒカルの歌声による井上陽水の「少年時代」が聴ける。ついでにその『20代はイケイケ!』のヴァージョンもYouTubeで聴けるようになった。至れり尽くせりの夏なのである。

歌詞を噛み締める。特に今年は「夏まつり 宵かがり」と歌われても夏祭りが中止になっている地域ばかりだから「八月は夢花火」という一節がリアルに響いてきてしまう。今年の夏は本当にあったのだろうかと後から悩んでしまうようなそんな特異なこの季節と井上陽水の書いた歌詞が不思議に呼応し合う。それを宇多田ヒカルの絶品の歌唱で味わえるのだから……いやホントうまいなぁ……。井上陽水が「やっぱりね、歌う人が違うと泣くのかうちの娘は?と思いました(笑)」と言ったのを思い出したわ。いやぁ、すげーな相変わらず。18年前からだけどさ。

これからの季節、サブスクで「少年時代」と検索してヒカルの歌に巡り会う人も出てくる訳だ。カバーを歌う宇多田ヒカルが如何に威力絶大かあんまりライトリスナーは御存知ないかもしれないので、これはいいぞ。もうどうせならどこかの企業がCMソングに起用しちゃえばいいんだけどね。リリースが昨年晩秋なので、やっと初めて相応しい季節になったのだから誰かやってくれないかしらん。リリース間も無いからちょっとということなら、5年くらい経ってからでもいいよ……このテイクを埋もれさせておくのは勿体なさすぎますです、ハイ。今年から八月の夜の定番曲に決まりだな。あたしとしてはね。

Whose Time is this ?

ここ3年位で百合漫画専門誌(コミック百合姫ね)で「そもそも同性愛が特別視されない世界線」のエピソードが格段に増えている。一昔前までの百合漫画といえば「同性と恋愛する(社会的な)葛藤」をまず描く作品が多かった(今でも沢山ある)のだが、そういうのいいからという事すら触れずに始まる物語がこうやって目についてきた背景には、現実世界でのLGBTQへの甚だしい(がまだ不十分な)認知度向上があるのだろう。

ヒカルも、ラジオの特番で同性愛についてサラッと流した(触れる気すら無かった)のが当時評価されていた。あれから二年経ち、今やその評価すらわざわざする必要も無いという空気になりつつある……のかな。界隈次第か。

となると、恐らく今後はヒカルが書く歌詞にも影響が出てくるだろう……と思いそうになったが、これが存外そうでもなさそうでな。『Prisoner Of Love』を提供した12年前のテレビドラマ「ラスト・フレンズ」は同性愛と捉えられる状況を非常に重く描いていた印象を持たされたが、当の『Prisoner Of Love』の方はというと、ドラマとの相乗効果が大きかったので誤解されがちだが、特に性別関係ない歌詞なのである。最近曲である『Time』と『誰にも言わない』についても、それぞれが「道ならぬ関係」だというだけで、性別は特に強調されていない。カレシやboyが出てくるが、こちら側が男性でも全く問題なく歌詞は通じる。ただ私がいつもどの曲についても積極的に百合認定発言を繰り返しているだけなのだ。勝手な妄想である。

勿論、その時々でヒカルは「こう受け取られるだろう」という意図・予想を持っているだろう。ある意味で印象誘導もあるかもしれない。しかし、こうやって急激に世界の恋愛告白事情が急変している中でも大して古びない歌詞を書いているのは流石だ。(PHSBlackBerry、MP3なんかの小道具は時代を感じさせるが、それが評価を下げる理由になることもない。) ここらへん、未来を見通しているというよりも、本質的なポイントを見極めて描写をしているという事なのだろう。ヒカルの持ち込む恋愛観は非常に理論的で、それが纏められたのが『初恋』だった訳だが、はてさて次のアルバムではどこまで踏み込むのやら。現代においてタブーとされている領域まで敢えて行くんじゃないかと戦々恐々としているよ。お母さん頑張ってよ。

幸不幸なんて右足左足みたいなものよ?

毎年8月6日の広島の話題をする度に8月9日の長崎についても触れるのが定番になっている。11時02分じゃなかなか黙祷出来ないからね。今年は日曜日。この日記の更新は無いだろうが、ゆっくりと時刻を噛み締める事は出来るだろう。

『日曜の朝』という歌はそういった時にも流せる。

『幸せとか不幸だとか

 基本的に間違ったコンセプト

 お祝いだ、お葬式だ

 ゆっくり過ごす日曜の朝だ』

これ、冷静に捉えると凄く過激な事を言っている。人間、誰しも幸せになりたくて、或いは、不幸になりたくなくて毎日を過ごしているもんだろうにそれを『間違ったコンセプト』と一刀両断するって全人類に喧嘩を売ってるようなもの。どんなパンクバンドだってここまでアナーキーになれたことはなかっただろう。不幸になりたがれても、幸不幸を丸ごと断罪できたヤツらは居なかった筈だ。

その上で、『お祝いだ、お葬式だ』とひとの笑顔にも泣き顔にも我関せず。どこまでも距離をとる。人類全員勝手にやってろ感が飛び出ている。8月9日の朝に聴くにも相応しい……と書くと流石に不謹慎が過ぎるのだけれども。

それをこうやって淡々と綴るんだから底知れないというかなんというか……と思っていたらそれから14年経ったら『誰にも言わない』の領域にまでやってくるんだからもう。こちらも「二人だけの秘密」でそれ以外の全人類を欺こうという企図。四面楚歌どころの話ではない。それでも二人で過ごすのが好きと言ってしまえるのは少し『あなた』にも通ずる所がある。母と幼子と思うから微笑ましいが、それ以外の関係だと危うく世捨て人だ。『誰にも言わない』はそこに片足突っ込んでいる。もう片足はこちら側。月夜の散歩をする度に片足ごとにどちらの世界も歩んでいく。異次元の音楽職人だ。

ヒカルには昔からどこかそういう傾向がある。放っておいたらSADEやTHE BLUE NILEみたいに8年も10年も浮世から離れて歌を書いたり絵を描いたりしていそうな。その“片側の危うさ”に触発されて私は自分も然して興味が無いくせに商業音楽市場がどうのこうのと毎回語るのである。それがヒカルを“もう片側”に繋ぎ止めて、アウトプットを促してくれるからだ。

宇多田ヒカルは途轍も無く優しい人だが、負けん気の強さもまた凄まじい。ただの探究心だけではテトリスカンストに到達しないだろう。負けた時の悔しさをバネに頑張る事を知っている。ヒカルが商業音楽市場に向いてくれるのも、「尻尾を巻いて逃げている」だとか「ひとりよがりの負け惜しみ」だとか言われると癪に障るからだ。だったらいっちょうやったろうやないかいとやり始めたら辞められなくなった、という結果今に至る。大変、有り難い。負けん気の強さは、持つべき友であることよ。(比喩)

ヒカルの二足の草鞋は片側ずつ別のもので、その二つのバランスで前に進んでいる。歩んでいる。それは例えば幸不幸のバランスであっても、いい。なんでもいいのである。「人は二つのことまでなら同時に手が出せる。なぜなら手は二つあるからだ。」みたいなことを昔ヒカルが言っていた気がするが、きっと両足もそんな感じなんだろうな。

──ちょっぴり風変わりな、真夏の夜の日記でしたとさ。

黙祷:静寂の経験

昨日8月5日の【今日は何の日宇多田ヒカル】で取り上げられていた14年前のメッセ[くまちゃんの旅日記〜新潟編〜]が堪らなく好きでね。写真も文章も。この醸し出す空気感よ。せめて文章だけでも引用しとくか。

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『新潟はいいところだね ひかるちゃん

まくらさんがいるよ

しゃけがおいしいらしいね 買って帰ろうよひかるちゃん』

「くまちゃん、熊はしゃけを自分で獲るんだよ。」

『えー ぼくそんなことしたら 汚れちゃうよ』

「そうだね。じゃあ買って帰ろうか。」

『うん』

http://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_64.html

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全国を回る二ヶ月間余りのコンサート・ツアー。そのライブとライブの間のひとときを覆う静寂が伝わってくる。写真もそうだけど、文章で“静寂”を伝えるのって難しくって。それが伝わってくるのが名文たる所以。

このあと9月上旬にはヒカルは広島にも訪れ、原爆ドームをみて感じた事についてもメッセージを寄せてくれている。この時もまた、その場の静けさが伝わってくるような筆致で大変印象深い。こちらも同じく喧騒と喝采に満ち満ちた公演と公演の狭間に浸った静寂を湛え、且つ61年前(当時)の今日当地を襲った大虐殺の阿鼻叫喚との隔世感からくる平穏の空気がそれと混ざり合って、なんとも言えない感慨をヒカルに齎していたようにも思えた。公演者にとっての旅、ツアーの醍醐味はこういった静寂の経験に依拠するのではないか、と公演者になった事の無い立場から想像してみる。

もしかしたら今のヒカルは、くまちゃんとのみならず愛息様ともこういった会話を交わしているのかもしれない。『あなた』で描かれている部屋でのそんな二人の風景を想像して私は今日もまた今日を生きようと思った。

大海の一滴の恩知らず、露知らず。

ついつい「宇多田ヒカル、インディーズにならないかなー」と思ってしまう事がある。

誰かのファンをやっていたら、たまには本人から感謝されたいものだ。しかし、宇多田ヒカルくらいビッグになると、こっちがどれだけ貢いでも大海の一滴というか、取るに足らないだろうなぁと感じてしまう。これがちっちゃいライブハウスで数十人の観客を相手にしている地下アイドルなら全然違うだろうな〜と思ってしまう。

ファンクラブもないし、ヒカルとしてもあんまり盲信的に入れ込まれ過ぎるのも困惑するので肩の力抜いて聴いてもらえればいいと思ってそうだが、何だろうね、他所をみると握手会とかしてたり(禍前はね)─いや、それをしたいという事ではないのだけれど、明確なリターンというか応答があったりするんだなー他所だとねぇ。

勿論、ヒカルのファンサービスは素晴らしい。それに文句がある訳では無いのでそこは誤解しないで欲しいのだが、「自分が居ても居なくても一緒」という心境がどうしても消えないのだ。ヒカルがあんまりにも大っきいもんだから。

一人の人間としては大きいも小さいも無い(約158cmで50kg以上…?)のだけれど、人々の共通認識の中の宇多田ヒカルは途轍も無く大きい。

「どちらにお出かけなんですか?」

宇多田ヒカルのコンサートです。」

「あら、いいですね。」

この「いいですね」を恐らく1億人位の人間から引き出す事が出来るというのは結構とんでもない。誰もが出来る訳では無い。そして、このサイズ感なのだ。応援してても時折無性に無力感を抱いてしまう原因は。ヒカルが素っ気ないからではない。Twitterではリプライしてくれるし、インスタライブではファンをゲストに招待したりした。スタッフからはTシャツプレゼントとかあったばかりだ。リターンは沢山貰っている。そういう所で不満がある訳では無い。ただただひたすらに、「自分じゃなくていい」というそれなのだ。

だが、それを補完するように、昔から僕らは「私だけのヒカルちゃん」という感情もまた持ち合わせている。自分の事をわかってくれるのはあの人だ、あの人だけなのだ、と。それは無力感と対になっていていつでも容易に反転するし、互いに支え合ってもいる。奇妙で不思議な感情のタペストリーだ。なので、無力感も独占欲も、常に湧き上がってはまた収まり、今日もヒカルの歌声を聴いて悦に入る時間がやってくる。そのあとに、ヒカルがリアルタイムでちらっとでも呟いてくれたり写真を見せてくれたりしたら最高だ。そうやって20年くらいなら簡単に過ぎるので、まだファンになって日の浅い方々も安心して欲しい。寧ろ、「自分みたいなのが居なくなっても同じじゃん」という自意識過剰が出てきてからが本番といえる。そういう時の気分に寄り添ってくれる歌がライブラリーには沢山あるぞ。『For You』とか『WINGS』、『残り香』なんかがお勧めだ。英語なら『About Me』かな。もっとも、今や万能の『誰にも言わない』があるので、これを聴いてればそれでいい気がするけれど、余りに達観しすぎていて日常の感覚を濯ぎ落とすには距離があり過ぎたりもするから、そういう時は『Can You Keep A Secret?』あたりがフィットするので併せて鑑賞して欲しい。誠にヒカルの歌と歌の関係性というのは見事なものなのだなぁと毎夜毎夜感心しているのでありました。今宵も月夜を眺めながら聴いて帰るかな。