無意識日記々

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3部作における視点の推移

という訳でKeep Tryin'は"大人からの視点"を強調した歌詞になっている。

『十時のお笑い番組 仕事の疲れ癒しても』なんてまぁ社会人の言う事だし、『将来国家公務員だなんて言うな 夢がないなあ』も大人が子供に溜め息を吐いてる感じだ。『ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん』も、まぁ学生相手という事もなくはないかもしれないし、これは自分の事を指して言ってるとも友達の事を指して言ってるともどちらともとれるが兎に角大人な台詞であると解釈するのが妥当だろう。『どんぶらこっこ 世の中 浮き沈みが激しいなぁ』も、子供が言えば可笑しみを誘いそうだから基本的に大人の言い分である。そして『少年はいつまでも いつまでも片思い』、これも大人から子供へ―或いは若い時の自分を指してかもしれないが―の目線が感じられる。基本的に老若男女の誰しもに共感が得られる歌詞を書くヒカルにしては、"大人になった私"という感じが強調されている。

この特徴は恐らく、Keep Tryin'が3部作の最終作である事に大きく関係してくる。

3部作1作目のBe My Lastの歌詞を振り返ってみよう。光曰く、この歌の要点は歌い出しの3行に尽きる。

『母さん どうして
 育てたものまで
 自分で壊さなきゃならない日が来るの』

つまり、こどもが大人に問う場面から3部作は始まる訳だ。『何も繋げない手 大人ぶってたのは誰?』の一節からも、この歌に込められた"こどもじみた何か"が感じとられる筈である。こどもである為、大人には解る事が解らない。背伸びはしてみるのだがやはりどうにも届かない。一言で言えば児戯、或いはお飯事といった所か。

そして、Passion (Single Version) に於いて、『僕ら』は『わたしたち』に成長する。光はインタビューで「老人が若い頃を回想するような」といった趣旨の事をPassionについて発言しているが、それはSingle Version独自のパートの有無に依らない話な気がする。前半の『僕ら』は、老人が若い頃を思い出し若い時の視点に飛んで自分たちの事を指す代名詞だという読み方が成り立つが、そのまま『ずっと前に好きだった人 冬にこどもが生まれるそうだ』に行ってしまうと何か違和感を感じる。こどもってのが孫の事ならまだしも。なので、Single Versionのパートは語り手を老人とは限定できないのではないか。もっと漠然と「嘗て"僕ら"だったわたしたち」という風合いでいい気がするのだ。

そしてKeep Tryin'では大人が少年の情熱の見守り応援する視線に変わる。具体的な年齢というよりは、"少年の瑞々しい心の在り方"を讃えているといった方がいいだろうか。このあたりは後に『自分の美しさまだ知らないの』と歌うBeautiful Worldに通じていくものがあるようにも思える。今振り返れば、だが。

こどもから大人に問い掛けるBe My Last、少年から大人へと成長するPassion (Single Version)、大人から少年にエールを送るKeep Tryin'。そんな風な視点からこの3部作をもう一度聴き直してみれば、また新たな発見があるかもしれないよ。