無意識日記々

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日本語の元気を感じ取れ…てない

特に普段は意識していなかったのだが、ヒカルが新曲を出さずに居ると日本語の歌を聴く機会が極端に減っているような。いや、それは正確じゃないか。普段から聴く日本語の歌の9割はヒカルだ。なんというか、日本語の歌の流れが止まってしまっているというか。

多分、私の母語である日本語で歌われる唄を受け入れたい器みたいなものが自分の心の中にあって、それを満たしてくれていたのがヒカルの歌だったのだろう。私は別に洋楽を聴きたくてイギリスやらドイツやら北欧やらのアーティストの音楽を買っている訳ではない。好きな曲が英語で歌われてたというだけだ。どうせなら歌詞の意味がわかる方がいいし(いや中には「知らない方がよかった」という残念な歌詞もあるけどね)、同じ位のクォリティーなら日本語の歌の方がいいんだが、結果的にこうなっている。日本語の歌という栄養分を、特に21世紀になってからは殆どヒカルから摂取しているのだ。

98年のデビュー以来、ヒカルの新曲の間隔が最も空いた期間は2008年3月の5thから2010年9月の愛セムまでの2年6ヶ月だ。PoLEPやBWPbAMなんかもあったけれど。あれ、私その期間日本語の歌どうしてたんだろ。思い出せないや。

もしかしたら、This Is The Oneが間に入ってきてくれた事で、私はその期間日本語の歌の栄養分を摂取するのを忘れていたのかもしれない。本来日本語で摂る栄養を、UtaDAの歌で補っていたという事か。ちょっと奇妙な自己分析。

でも今は、なんとなくではあるが、日本語の歌を聴いてみたい気もする。ヒカルの歌の歌詞を音韻等を鑑みながら聴く癖が板についてきたからかもしれない。職人技の作詞術、メロディーへの歌詞の載せ方に触れてみたい、という欲求が、あるような、ないような。ただ「ヒカルの新曲が聴きたい」という、別に人間活動期間中だろうがそうでなかろうがいつも言ってる台詞を少し捻って言い直しているだけかもしれない。でもなんだろうね、このジワジワ来る物足りなさは。日本語が衰え始めているのだろうか。

ふぅむ、この"感覚"は、まだ言語化に挑むには早過ぎたようだ。

光の日本語も、どうなっていることやら。今のライフスタイル次第だが、普段英語ばかり使う生活になってしまうと、日本語を忘れるというよりは、日本語による思考の流れが廃れてしまうような。それを不安視すべきかどうかは微妙な所だが、今私が感じているこの"感覚"は、存外個人的なものにとどまらないのかもしれない。わかんないけど。どうなんでしょうね、みなさん。