無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

3900円と10900円、777円と777円

うむ、ぐっすり寝ていて深夜のツイートに反応できなかった。今度はレジの話か。フォロワーさんのうまい返しでキッチリ話が締められたので特に言う事はないかな〜。『900円ちょうどあって嬉しくて出した私』で思い出したが、私もコンビニのレジでちょうど支払いが777円になって「おぉ」と思った事がある。ここまではよくある話。喜び勇んで小銭で777円払おうと思って小銭入れを探ったらちょうど777円だった。支払ったら小銭入れが空っぽになった。偶然777円の買い物をした時に所持していたコインの合計金額がぴったり777円だった。これはあんまりない話なのではないか。いやまぁ確かにどうでもいいっちゃどうでもいいけど、何か凄くない?

でも考えてみればヒカルの作詞だって似たような所があって。今年初めにキプトラの歌詞の話を延々繰り広げてみて―実はあれまだ終わってないんだけど(汗)―感じたのは、何故その奇異で一見無関係に思える諸条件に合致する言葉が存在するのか不思議でならない、という点だった。まるで最初っから答が決まっていてそれに合わせて条件を導き出してきたような。先の例でいえば、まるで私が予め自分が持ってるコインの合計金額が777円である事を知った上で777円の買い物をしたのだと解釈したくなるような、そんな不思議な感覚に囚われるのだ。

勿論、私は事前に自分の持っているコインの合計額を把握しているなんて事はないし、ヒカルだって予め書く歌詞が何であるかを知っている訳ではない。知っていたらあんなに作詞で苦労しないよ。しかし、あの、答を知った時の「予め仕組まれていた感」は一体どう受け止めればよいものか。ヒカルはそれを『self prophecy』と形容していた。答は既に自らの手によって書かれていて、それが答だと気がつくまでに時間がかかる。そういう"仕組み"になっている、と。『無意識日記』の名付けも、日記のつもりじゃなかったけど後から読み返してみたら日記みたいなものだった、という感想が由来な訳だが、そうすると例えば私もこのblogの中に既に何かの問いに対する"答"を書いているのかな、なんていう妄想を繰り広げてみたくなったりもする。今の私にはその"問い"が何であるのかすら、いやそもそも"問い"なんてものが存在するのかどうかすら、わからない、知らないのですけれども。取り敢えず次のヒカルの作詞を、首
を長くして待っている事だけは間違いないけどね。