無意識日記々

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インターネット

インターネット世代は知識を海のように捉えているのではないかという話の続き。要は、時間軸も相対化されて知識が"地図"のように全体に散らばっている構図である。

昔ながらの知の凝縮といえば図書館だが、そこに広がるのは動きのない鉱物の山のようなもので、こちらから掘り出さないと輝きを放ってはくれない。長年の知識の蓄積を経て、人は漸く脳内に地図を描けるようになる、というのが手順だった。

今は検索エンジンのお陰でその地図を脳外化する事に成功した。膨大な知識の海は、眼前に広がるだけではなく、答の粒々を流して寄越すようになった。ここで重要になるのは、勿論検索の技巧の巧拙もあるのだが、そもそも「何を探すのか」の感覚の方である。その時点で値踏みをされているかもしれないというのは恐ろしい話だが、そこで躓くと知識の海に負けるのだ。自分が何を探していたのか途端にわからなくなってしまう。

別に負けてもいいじゃないか、と私は思う。『私の人生八割五分こんな感じ』と語るヒカルもまた、似たような感覚を持っている、のかもしれない。要は、探しながら自分が何を探していたかを知っていくのだ。極端に言えば、最初に問いを立ててはいけないのである。

この話を延々と続けているのは、私がヒカルの音楽性変遷に興味があって、尚且つこの話の概形が、そのテーマに関する手掛かりになるのではないかと感じさせるからだ。まさにそのまま「何を探しているかの感覚の話」なのだが、ヒカルの音楽性の変化についてこれだけ沢山書いている人も他に居ないと思うが、それでも私はその"流れ"が殆ど掴めていない。捉えどころがない、というより音楽性がバラバラに過ぎるのだ。それは散漫とは一線を画す誠実さに満ち溢れている分、ますます"何のことだかわからない"。

大抵のベテランミュージシャンは、時間の流れと共に音楽性に"一定の変化"があるものなのだ。その中には行ったり来たりもあるだろうし山あり谷ありもあるだろう。迷走して何が何だかわからないなと感じる時でも「迷走しているな」とわかるものだ。ところがヒカルにはそれがない。このBlogではそこのところを必死になって見極めようとしている。何かを書く時には、必ずそこにストーリーがなければならない。でないと何を書けばいいかわからない。様々な商用記事に"こじつけ"が多いのも、そこで何かを書かなければならないからだ。無理矢理にでもストーリーを見つけ出す。その物語が真実であるかどうかは問題ではない。本末転倒ではあるが、ずっと書くとはそういう事なのだ。お陰でこのblogは迷走しっぱなしだが、それはつまりそれだけヒカルの音楽性の変化が予測し難いという帰結の補強でもある。

ただひとつだけ言える事がある。楽曲の質が上がっている事だ。100m走などと違って、音楽の、しかも楽曲の質などという概念は掴みどころがないが、これは相対的なものだ。平たく言えば、HEART STATIONを作れた人がULTRA BLUEを作ったとしても不思議ではないが、ULTRA BLUEまでしか作っていない人がその時点でHEART STATIONを作れるかというと多分無理だろうという意味だ。結局はどこまで行っても主観的な概念でしかないのは変わりはないが、頭の整理としてはそんな感じである。

つまり、ヒカルは経年と共に作曲の質を上げているという意味においては時間の流れを推し量れるのだが、全体の音楽性、(余り歓迎される言い方ではないが)音楽のジャンル的な振り幅の具合がどちらに偏っていっているとか一切ないのである。SCv2の新曲群がその最たる例で、フォーク、ハードロック、ダンスポップ(しかもケルトコーラスとストリングスをフィーチャ)、シャンソンとジャズのマッシュアップ、ピアノバラードと全く何のまとまりもない。行き先不明の暴走トレインの名に恥じない暴れっぷりである。この音楽性を前作であるThis Is The OneやHEART STATIONから予測するのは不可能に近い。しかし、宇多田ヒカルを知らない状態で総てのアルバムを聴いた時に私がクオリティの順に並べたとしたら、恐らくそれは時系列順になるだろう。

以前、今自分の聴くヒカルの曲を回数順に並べたら時系列順になると書いた。その時は「今のヒカルに興味があるからそれにより近いものに興味がいくのだろう」と分析したが、それに加えて、単純に最近の方がいい曲の割合が多いというだけでもあったのかもしれない。確かに、例えばFirst LoveのFirst Loveは当時のヒカルにとってはホームランで、今のヒカルもあのレベルの曲を書くのは大変難しい。だが、全体を見渡した場合、あの頃のクオリティを出すのは今なら造作もない、というかあんまり時間がかからない、或いはたくさん作れる、といった具合だ。

一方で楽曲と人との出会いは一期一会である。その曲と他の曲を比較してクオリティがどうのと宣うのは本来野暮だ。人は同時に2つ以上の曲を聴く事はできない。その曲を聴いているその時その時間はその曲との"ふたりきり"の時間である。その大切さの前には他者との比較などずっと後の話になるだろう。16歳の時のヒカルは、今のヒカルには出せない何かがあったのであって、その一過性とクオリティは何の関係もない。如何にヒカルが昔の自分のFly Me To The Moonを聴いて恥ずかしくなろうとも、だからこそそう歌うのはその時にしか出来なかった。音楽は常に「今」を捉えてきたのである。

そういう風に考えていくとやはりヒカルの音楽性の変遷は「ない」或いは「わからない」という元に戻ってしまう。だから冒頭の区別に触れてみた。

考え方を変えてみる。ヒカルの音楽のもつジャンル的なパースペクティヴは、時間に沿って端から順に描かれていくのではない。まるで絵の具をキャンバスにぶちまけるように、或いは炙りだしのように、不確定な様々な場所がランダムに現れてきているのではないだろうか。なぜそうするかというと、「時間がない」からである。これには2つの意味がある。1つには、「時間が足りない」という意味だ。ヒカルのもつポテンシャルとしての音楽的な幅の広さは順番に披露していったら100年でも足りない。兎に角できる所から手当たり次第に具現化していってくれ、という神様の願い。もう1つには、「時間(の流れという概念自体)がない」という取り方。これが今回のテーマである。ヒカルからすれば、自分の描ける全体としてのパースペクティヴは朧気ながら見えている。普通なら今と過去しか見えていないところを、彼女の場合、こうなるに至った可能性のある総ての過去とこれからこうなるであろう総ての可能性の未来をいちどきに把握出来ているのだ。そんな"Monst
er"にとっては、時間とは流れるものではなく目の前に広がる地図の地軸のひとつにしか過ぎないのである。何だか強烈過ぎる話だが、そうとでも解釈しないとこの奇妙な「一貫性と無鉄砲の同居」が説明できないんだもん。やれやれ。

となると、つまりそろそろ生まれた頃から検索エンジンに慣れ親しんだ世代が成長してくる時期にさしかかりつつあるから、ヒカルのような「手当たり次第」な才能が出て来てもおかしくないように思われる。インターネット出現以前から曲作りをしていたヒカルがそういった能力を何故有していたかは知る由もない、というかこっちの勝手な想像だからそりゃ仕方ないんだけどこの「手当たり次第」について予測できる特徴といえばある時いきなり全体像が完成して魔法のように作品が現れるような手法を開発するのではないかという事だ。事前にはそれらはガラクタにしか見えない。ヒカルの場合、それぞれにひとつひとつ完成された"楽曲"という単位が古典的に纏まったものだからどの世代からも評価されたが、これからパッチワークのようにして明らかになっていく"音楽性の全体像"についての評価は高くない。というか、ない。もっと何十年も後にいきなり全体像を結んで現れるだろう。その時に今現在の過少評価ぶりを思い知るのである。つまり、ヒカルのや
っている事はメタな意味での「手当たり次第」であるから、次の世代よりも更に先を行っている。"Monster"にも程がある。

つまり、ヒカルが12年間、ひたすら楽曲の質の高さを一貫して追い求め続けた結果がこれであるのだから、ヒカルの持つ時間軸はこの一点においてのみ"流れて"はいる。が、その基準は余りにも人間離れしている。非人間的といってもいい純粋さだ。普通はもっと俗っぽい。そのピュアネスが個性ならば、確かにガスになってこの星を覆いたくなる気持ちもわかってくる。そこまで概念的にならなくても、という事で現在の人間活動なのだろうか。まぁまた音楽家として戻ってきた時にわかる事なんじゃないかな。その時はきっとその何十倍もの「わからないこと」を一緒に運んできてくれるだろうしさ☆