無意識日記々

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既知極と未知極の間に広がる曲達

どれだけ技術が進歩しても、音楽に関してはここ百数十年、流れてくるラジオ、流すプレイヤー、生演奏会、という3つの組み合わせは変わっていない。インターネット時代になってもそれは同じである。違法だろうが適法だろうが、ダウンロードして聴くというのは曲を"選んで"いる事には変わりないし、インターネットラジオというのは名前の通りインターネットを使ったラジオに過ぎず、音を電信する過程が変わったに過ぎない。つまり、蓄音機とipod、鉱石ラジオとiphoneはまぁ大体やってる事は同じな訳だ。勿論生演奏会というのは、音を電気で増幅する技術が加わっただけでこれは多分数万年間同じ形態であり、伝統の長さが違うので別格と言っていいかもしれない。

ただ、"極"としてその3つがあるというだけで、技術の進歩はその3つの極の間を様々に埋め尽くしつつある。例えば、iphone classic に数万曲入れている人は、シャッフル演奏は殆どラジオみたいなものである。そこまで行かなくても、例えばネットラジオThe Beatles専門チャンネルを聴いているのなら、The Beatlesフォルダをシャッフル演奏してるのと変わりがない。つまり、プレイヤーの大容量化とラジオの細分化は、それぞれの端っこで大体同じになるのである。

その中に差があるとすれば、つまり"今聴いている曲を、聴く前に聴いた事があったかどうか"に尽きる。音楽の楽しみ方にはまた2つの"極"があり、それ即ち"既に知っている曲を聴いて楽しむ"というのと"未知の曲に出会い知る事を楽しむ"というのの2つである。

当然ながらこの2つもまた"極"であってその間にはグラデーションが存在する。例えば、CMで15秒だけ聴いた曲を初めてフルで聴く場合は、その15秒に関しては既知だが残りの部分は未知である。例えば、知っている曲をコンサートで聴いたらライブ専用のアレンジだった、という場合は、どこからどこまでが既知でどこからどこまでが未知なのか、説明するのも難しい。例えば、Webで歌詞だけを先に知って後から実際のトラックを聴く場合、一体何を予め知っているというのだろう? 既知と未知のコンビネーションのバリエーションは、斯様に様々である。

そんな中で「1人のアーティストを追い掛ける」タイプの音楽の接し方は、どこらへんに分類されるのだろう。このBlogはまさにそれを実践している訳だが、我々はそこで何を得、何に期待しているのか。次回に続く。(いつになるかわからんけど)