無意識日記々

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概念とは格闘しない

開放系のコンテンツでLIVE感溢れるものづくり、というのをヒカルはしない。楽曲も、ラジオ番組もそうである。しかし、だからといってこちらからのフィードバックが無意味という事はない。未完成のものを途中で提示する、という事をしないだけで、ある完成品への反応は、次の完成品に活かされていく。

ただ、常にこのプロセスをとる為、我々は待たされている間ひたすら寂しい。まぁ勿論途中で何かをリークする必要なんてないんだけど創作中のヒカルはこちらからしたら「私の知らない色」な感じがする。まぁ、仕方ない。

しかし逆に、完成品に対する反応は多分気になって気になってしょうがないんじゃないか。やりとりにLIVE感は乏しいが、ロングタームでのコミュニケーションは成立している気がする。


ヒカルは"Popであること"を常に心掛けている。それは、特定の層ではなく不特定多数に向けた開かれたコンテンツを目指したものだが、だからといってヒカルは何かあやふやな「一般人」みたいなものを聴き手として想定している訳ではないと思う。寧ろ具体的に、「この人に気に入ってもらえたらな」という人を想定して曲作りをしているように感じるのだ。

それはどういうことかと言うと。世の中には「20代子持ち主婦」である、という人はわんさか居ると思うが、「20代子持ち主婦」という人は居ない。それは何か抽象化された概念であり、当てはまる人は居てもそれそのもの、という人は存在しないのだ。

当たり前過ぎる程当たり前のことなのだが、人はしばしばこの区別を忘れる。商品開発には「ターゲット層」という概念がつきものだ。さっきの「20代子持ち主婦」もその一例である。人は、その、実際に居もしない"概念"に対して商品を企画・開発してしまうことが多い。その場合往々にして顧客一人々々各々違う顔を持った個々人であるという認識を忘れ概念と戦い始める。こうなるとマズい。

ヒカルは、そういう風にはしていないんじゃないか。そういう概念モデルではなく生きて呼吸して生活している誰か生身の人間に対してのメッセージとして曲を作っているのではないかと。


そう考えると、ヒカルのその時々の交友関係というのは非常に大事になってくる。その時々の曲作りで誰か具体的なリスナーを想定しているとしたらその彼/彼女の耳の具合というのはヒカルの作風に影響を与える。特に、その友人がミュージシャンであったりアーティスト/クリエーターであったりすると、ものの捉え方はまるで変わるだろう。

もしかしたら、1stアルバムの曲を書いていた頃は、そんなにミュージシャン/アーティスト/クリエーターの友人というのは居なかったのではなかろうか。そういう"普通の"(というのが何を意味するのか相変わらずわからないが)友人たちをリスナーとして想定していたことが、あの作品のとっつきやすさに繋がっていたのかもしれない。

対局にあるのはEXODUSだろう。実際は知る由もないが、2003〜2004年頃のヒカルは大学に行く訳でもなくひたすらスタジオに缶詰めで、なかなか業界外の友人と会う機会がなかったのではないか。あのアルバムは、エルトン・ジョンをはじめとして同業者の評価が高い。即ち、いつのまにか当時の光は、聴き手としてミュージシャンを想定していたのかもしれない。

この筋に沿って話を更に進めると、人間活動中の交友範囲というのは今後の曲作りに極めて強い影響を与えるだろう、と言いたくなってくる。今、光はミュージシャンの友達が多いのか、或いは、まるで関係のない世界の人たちと交流があるのだろうか。

ラジオを聴く限りにおいては、リスナーとして想定していたのはInterFMを聴くようなリスナー、即ち洋楽ファンな人を考えていたのでは、という気になってくる。洋楽、というと変な感じだが要はアメリカの音楽だ熊泡1回目の場合。藤圭子もかかったけれど。つまり、NYの友だちと今交流があったりするのではないか、なんていう風なことも考えられる。

ここで期待したいのは、ヒカルの知人たちの「ラジオ聴いたよーっ!」というフィードバックだ。これが今後の熊泡の方向性に影響を与えるのではないか。具体的な顔をもつ、ヒカルの知る誰かの意見。それを想定して次の収録を行う気がする。果たしてどうなりますことやら。