無意識日記々

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「しろ」「するな」「すれば」

昨日は憲法記念日だったか。特に感慨は無いけれど、折角だから「法」の話をしようかな。成文法と呼ばれる、文章に起こされたもの。実態としては概念なので、実体は「本」になるだろうか。

改憲の話が出ている。前に話した通り、私自身はかなり極端な改憲論者だと思うが、今の所、日本国憲法についての改憲案で賛成できるものに1つとして出会っていない為、現状では護憲論者として振る舞わざるを得ない。よい改憲案に出会えればこの限りではない。

法の実体が本である限り本質は「文」によって形成される。法の文にはどんなものがあり、変えるとしたら何を変えるべきなのか。

文、というのは何種類かある。叙述文(命題)、疑問文、命令文などなど。「法」とは人(民)に行動を教えるものだから、基本的には命令文が主体になる。

命令文には2種類ある。「しろ」と「するな」である。

「しろ」或いは「やれ」というのは直接の行動の指定だ。大体が義務である。日本国民であれば「働け」「教えろ」「払え」と命令される。国民の三大義務だ。

「するな」「やるな」は行動の制限だ。「殺すな」「盗むな」「騙すな」などなど。十戒などはこの手の法だ。やっちゃいけませんよという行動が書いてある。

基本的に憲法は以上である。人がしなきゃいけないこととしちゃいけない事が書いてある。

とはいっても、人に「しろ」「するな」と言ってもきいてくれるとは限らない。どころか、基本的には無視される。そこで次だ。

「するようにさせる為にすること」
「しないようにさせる為にすること」
この2つを法として書く必要がある。これらは、大体刑罰になる。ここらへんからは憲法じゃなくて、個々の法律、民法やら刑法となる。そして、今の記述にあるとおり、途端に文がややこしくなるので要注意。


さて。時代と共に憲法を変えるとして。どこを変えればいいのだろう。時代とともにいちばん変わるのが、人が「できないこと」が減り、「できること」が増える事だ。つまり、新しい行動が増える。

その新しい行動に従って、新しい「しろ」と「するな」を付け加えなければならない。だから新しい法は常に必要である。

例えば、電話や電信の発達でできる事が増えた。その分、「しちゃいけない」「するな」という法を作る必要があって、最近みんなあたふたしている。また、医療の発達によって、例えばクローンが作れるようになった。どこまでを「するな」と書くか、皆悩んでいる。

「できること」は主に技術の進歩で増えるが、思想の発達によっても進展する。「その発想はなかったわ」である。「両性の同意に基づいてのみ」としか書かなかった当時は同性の結婚という発想が(少なくとも文の書き手には)なかった。今はある。ただ、発想自体なかったのだから「するな」とも書いてないし、「しろ」とも「すれば」とも書いてない。書ける筈もない。だから今のところ、どちらでも好きにして構わない。


「すれば」について書いていなかった。「してもよい」だ。行動の許可である。言論の自由表現の自由の保障などだ。命令ではなく、しなきゃいけないわけではないししなくてもよいけれど、してもいいよという文。「すればぁ?」と書けばわかりやすいか。どうぞご自由にという事だ。


で。法を変えるとなると、つまり、新しく「するな」と「すれば」を加える事になる。社会として「できること」が増えているならば、新しい「するな」を加える事、新しい「すれば」を加える事には意味がある。

しかし、今ある「するな」を「すれば」に変える必要が出てくるのはどういう場合だろうか。新しい自由が増える、という解釈と道徳の後退、という解釈が混在する事になるだろう。そして、何より問題なのは、それによって他の「しろ」「するな」「すれば」と話が「かちあう」場合が出てくる事だ。それが法の問題の本質である。


簡単そうで難しい話だ。しかし、日本国憲法は、例えば「しろ」「するな」「すれば」が明確に分類されているかといえば否だ。「させる為にこうする」「させない為にこうする」或いは「したらこうする」「しなかったらこうする」に関してはいきあたりばったりの部類と言ってもいい。もっとちゃんとしろ、或いは一から作り直せと思う。でも面倒だし他人事なので私はやる気はない。相変わらず、誰かが書いてくれたものに対して「いい」「よくない」と言うだけだから、特に何も主張する気はない。


なので。まぁここからが本題なのだけれど。日記も法と同じ文だが、叙述文(「した」「だった」)以外にも、私は結構余計な事を書いている。だが、読者に対して「しろ」「するな」と言っても、「させるようにする」「させないようにする」手段も権利も持ち合わせていない為、それは書いていない。書いているのは新しい「すれば」だ。「こいしてみたらいい」「こうみてみたらいい」という新しい発想と視点を提供する事。これが「した」「だった」以外に書く話。

法は、「させるようにする」「させないようにする」手段とセットの文だ。つまり、常に「手と本」が一体だ。日記は常にただの「本」で、手は私も含めた読者が一人々々持つものである。私は、その意味で何もできないし、するつもりもない。する気なら日記なんて書いてないだろうし。

ただ、「手」にも色々ある。腕力の他に、財力やら権力やら魅力やらといった精神的な手もある。何かの「手」と一緒になれば、日記もまた違った風になるだろう。法みたいに。でも今は何もないし、それで居心地がいい。私は「手」から程遠い人間だから。「しろ」も「するな」も書かない。手を出したら、それは何かの終わりである。でも、人と人は手を繋ぎたがる。そりゃあ確かに、難しい。毎日悩むのはそういう事だ。それはそれで、でもまぁ、楽しい事かもしれない。