無意識日記々

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やっぱりあやふや

で何故「淋しさ」でなく『淋しみ』を使ったのか、という話になるのだがここから更にあやふやになる。まぁしゃあない。いつかヒカルがインタビューで答えてくれるのを待とう。いや『パイセンに聞け第3弾』で答えてくれりゃいいんだが。

「楽しさ」と「楽しみ」の違い、「悲しさ」と「悲しみ」の違い、それぞれ説明出来るだろうか。かなり難しい。「淋しさ」と「淋しみ」だって同じように微妙な違いしか無い。

しかし、確かに違うのはわかる。ここで動詞だ助詞だ形容詞だ形容動詞だ名詞だとか言うからややこしくなるんだな。ひたすら例示するか。

「私に訪れた悲しさ」とは、感情の話だ。悲しい気持ちになりました、と。一方「私に訪れた悲しみ」だと、悲しい気持ちになる出来事がありました、という解釈になる。振り切って言ってしまえば、前者は叙情で後者は叙事だ。

「踊る楽しさ」といえば、踊った時に湧き上がる気持ちが「楽しい」なのです、という話になり、「踊る楽しみ」といえば、これから踊る事を考えると楽しい、という話になる。なぜそうなるかは…うげ、難しいな。

やっぱり形容動詞と形容詞と動詞の違いを…いやいやいや。


かなり微妙だ、という印象を持って貰えればよいか。歌に戻ろう。

『毎日の人知れぬ苦労や淋しみもなく
 ただ楽しいことばかりだったら
 愛なんて知らずに済んだのにな』

ここの、『苦労』の部分を、一旦メロディーは忘れて、それぞれ「苦しさ」と「苦しみ」に一度変えてみよう。

1:「毎日の人知れぬ苦しさや淋しみもなく」

2:「毎日の人知れぬ苦しみや淋しみもなく」

先程「悲しさ」と「悲しみ」の比較と同様、1の「苦しさ」は感情の話、2の「苦しみ」は苦しい出来事の話だ。本来の『苦労』は、どちらに近いだろうか。恐らく、自分の苦しい気持ちの話というより、苦しくなる、大変な出来事がありましたという事だろう。であれば、『苦労』を変えるなら、どちらかといえば『苦しさ』より『苦しみ』の方がいいだろう。つまり、

2:「毎日の人知れぬ苦しみや淋しみもなく」

は、

「毎日の人知れぬ、私が苦しい気持ちになる出来事や淋しい気持ちになる出来事もなく」

という意味になる。ヒカルは、つまり、『苦労』と並列する為に「淋しさ」より『淋しみ』を選んだのではないか、と推測されるのだ。どうだ歯切れが悪いだろう。だからずっと書くのを躊躇ってたんだが。

しかし、確かに日本語の「淋しい」の周りの言葉って少なくて、まさに淋しい感じだ。熟語化しようにも「寂寥」とか「寂寞」とか書けそうにないのしか思い浮かばないし。「淋」の字に至っては私最初に思い浮かんだの「淋病」だもんねぇ。淋しすぎる。

どうも、「淋しい」という感情自体、日本語の片隅に生まれた特殊なものなんじゃないかという気すらしてくる。そんな中で使われた『淋しみ』という表現は、楽しいや嬉しいや悲しいと同じようにこの気持ちを取り上げていこうよという先駆けになってくれやしないか、という淡い希望なんかも抱いてしまう。宇多田ヒカルが言ってくれたのだから、とこの気持ちと向き合う人がちっとでも増えてくれたらこの地味な"革命"は成功なんじゃないでしょうかね。私の解説は成功しませんでしたが。嗚呼、淋しい。