無意識日記々

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2018年06月27日のツイート

UHのuh

あれま、「パクチーパクパク」って書いてたけど歌詞カードだと『パクチーぱくぱく』って平仮名なのね。特に意味はなく気付いてなかっただけです。

『こりゃなんだコリアンダー』(笑)

そつがないよねぇ。ただの駄洒落なんだけど、落として来ない。で、きっちり落とし込んでくる。これを聴いたら一瞬ギャグソング・コミックソングに聞こえそうなんだけどフルコーラス聴き終えた頃には印象がすすすっと変化している。本当に見事なものだ。

鍵になってるのは、『パクチーぱくぱくパクチーぱくぱくパクチーぱくぱくパクチーぱくぱく』と続いたあとの『uhhhh〜♪』でしょう。あそこで空気がパッと変わる。そこから順番を逆さにした『ぱくぱくパクチー』に繋げてメロディーがひとまとまり。最初の『パクチーぱくぱくパクチーぱくぱく』が"起"、次の『パクチーぱくぱくパクチーぱくぱく』が"承"、『uhhhh〜♪』が"転"、『ぱくぱくパクチー』が"結"ときっちり起承転結になっている。

この『uhhhh』があるかないかでえらい違いだ。『パクチーぱくぱくパクチーぱくぱく』の部分だけだと本当にただの童謡にしかならんのだが(それでも名曲になってたと思うけどね)、この『uh』がAメロ部分のしっとりとした大人な雰囲気を誘い出す呼び水になっている。『uh』と歌われた瞬間に「え、そっちの空気に行けるの?」と思ったが、まさに。サビの転部を担いながら楽曲全体の雰囲気を事前に示唆する伏線の役割を果たす『uh』。Utada Hikaruのuhですよこれはまさに。

だってねぇ? 最初の『こりゃなんだコリアンダー』の時点では最終的に『泣いたらとてもお腹が空いてた事に気づくよ』に着地するなんて夢にも思わないじゃない? またここの歌詞も人生の苦味をパクチーの味になぞらえて更に食べる話で終えてるのが秀逸過ぎるんだけど、こりゃなんだからここまで滑らかに繋いでくる第一歩が『uh』なんですよ。ここナシでは『パクチーの唄』は成り立たない。最重要パートのひとつです。

ライブでギター弾き語りとかして欲しいけど、そこでこの『uh』を歌い忘れないようにしないとね。

それにしても、この唄に違ったコード進行を持ち込んだのはなりくん(小袋成彬)だそうだが、もしこの『uh』が彼の発案だとすれば作曲者クレジットに名を連ねているのも納得。ほんの一音(の長音)だが曲にとってクリティカルな効果を齎したのだから貢献度極大なのですよ。

angerkiller coriander

もう何度も書いているのだが自分自身かなり衝撃を受けた出来事だったのでまた蒸し返してみる。

10年程前ヒカルがラジオ出演した時、あろうことかインタビューアの人が「新曲の中で、あ、ぼくはくまは除いて」と言ったのだ。全く悪気はなかったのだろうけれど、そこからヒカルの声色が変わった。慣れている人でないとわからない変化だったかもしれないが、あんなに怒ったヒカルをあの時以来みたこと&きいたことがない。戦争が始まった時や遺族といざこざがあった時ですらあんなに激情を漲らせた事はなかった。勿論、どなりつけたとかではない。知らない人が聴いたら「ん〜声がうわずってるかな?」という程度だったのだがヒカルの感情の動きに敏感なヒカチュウたちには戦慄の体験だった。そりゃあ最高傑作と自負する楽曲を冗談として片付けられようとしたら怒るわな。一生懸命モノを作った事のある人ならわかるだろう。3日前から仕込んで6時間かけて調理したフルコースを「え、これ食べ物だったの?」とゴミ箱に捨てられている瞬間を目撃したような、そんな感覚だったのではないか。

その時のパーソナリティさんは私の中で「ヒカルに失礼な事を言った人歴代No.1」に輝き続けて10年になる。なおNo.2は「この『前世』って歌詞、NGなんですけど?」とヒカルに言ってきたNHKだ。言った内容より言い方だったと妄想するが、これで『ぼくはくま』の「みんなのうた」への参画が頓挫していたら↑のインタビューアさんを抜いて歴代1位だったかもしれない。ちゃんとテレビとラジオから『ぼくはくま』が流れてきたから2位に甘んじていると申しますか。流石NHKと感嘆せざるを得ないんだけど。

で。

パクチーの唄』の新しい偉大さは、その"No.3"を今回生み出しそうにない所にある。うたマガを読んでいても、危なっかしかった人はわんさと居る。最終的に共作者として名を連ねたなりくんの最初の反応がいちばん危なかった…というかアウトだったんだろうけど"共犯"になる事で相殺されたと言うべきか。他にも、レコーディングに携わった人たちも危うかった雰囲気だし、そもそも今回のインタビューアの人の反応もデインジャラスだったようにみえるけど、最終的にヒカルを怒らせるに至っていない。全部ギリギリだったかもしれないが、これきっと誰もヒカルの怒りを買っていない。

この点こそが、『ぼくはくま』にはなかった、或いは少なかった、『パクチーの唄』ならではの美点である。ヒカルの剥き出しのこだわりをそのまま曲にせず、なりくんの力を借りてしっかりしっとりPop Songとしても(勿論童謡としても)聴ける楽曲にして世に出せた。これはヒカル自身の成長でもあるだろう。それだけ、様々な人たちの顔が見えていて、その心を掴めているのだ。

詳細に分析するのは結構難しい。それだけリスナーの心理というのは多岐に渡り微妙なので微調整が必要な訳で。ストレートさでは『ぼくはくま』が勝るが、『パクチーの唄』はまるで、「コリアンダーは洋食にも和食にも合いますよ」というアピールポイントを雑多なサウンドで見せてくれているような。チョコレートのように万民に愛される味ではないからこそ、パクチーの苦味が目に染みる。『Flavor Of Life』以来の、大人の『淡くほろ苦い』唄である。