無意識日記々

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熟れる前に売れた憂いの歌姫の宴

何度聴いてもSingle Collection Vol.2 Disc 2 は凄い。何なのだろうこの神々しさは。

2008年3月に5thアルバム「HEART STATION」を聴いた時に、明らかに過去のどのアルバムよりも楽曲が充実していてスケールが大きくパフォーマンスもサウンドもハイクォリティーであったのに、何故か"最高傑作"と呼びたくなかった。

当時の私には、"確かに、これまでで最高の出来だが、ここにみえる風景の続きは、きっともっと素晴らしい筈だ"という確信があったのだ。そして今振り返れば、確かにSC2Disc2はあのHステのスケール感を凌ぐ何かを持っているように思える。私の確信は、確り未来を捉えていたのだ。

スケール感がより増した、という雰囲気でもない。それより寧ろ、そこから突き抜けてしまったような。テイク5からぼくはくまへと抜け出たあの境地に、あの台地にもういちど還ってきたような。神々しい、とはいったが、特にGoodbye Happinessには神話の世界観を感じる。Synergy Chorusの効果も大きいのだろうが、その神聖さも『So Goodbye Innocence』と歌って後にしてしまっている。一体、ここはどこなのだろう? よく知っているようでいて、一度も見たことのなかった世界に、我々を連れて行ってくれる歌だ。

嵐の女神には"道"が見える。帰り道だ。何故か歌には、音楽には帰り道がよく似合う。backwardである。時には夕焼けを見ながら、時には星空を眺めながら、家に帰る。歌はするとそこにあるのだ。そこを捉えたのが嵐の女神。何しろタイトルからして神なのだから神々しい事この上ない。

勿論他の3曲も素晴らしい。しかし、やはりここでも私は、このSC2Disc2を最高傑作とは呼びたくはない。体裁としてミニアルバム、或いはDisc1とのコンピレーションという体裁もあるかもしれないが、どこかこう、最高傑作と呼ぶ時の隙のなさみたいなものを感じないのだ。それだったらどちらかといえばDeer Riverの方が最高傑作っぽい風格があるように思う。しかし、私の感性からすれば楽曲の充実度はHステの方が上である。この妙な矛盾。

不思議な感触なのだが、SC2Disc2の曲のヴァース(Aメロね)部分を聴いていると、"ああ、熟れてきてるな"と何故か毎度思うのだ。熟しきったサビのメロディーに対して、ヴァース部はどこか、吸い取られたような痕跡を感じる。メロディー自体は美しいのだが、全体の関係性からそういう印象をもつのである。ヒカルが人間活動についてコメントしてきた通り、ここには「熟した実が落ちる」ような世界観がある。

そしてその熟れた感触が、私にSC2を最高傑作と呼ぶのを躊躇わせる。下り坂というのでもない、実りを収穫した後の弱った茎の話でもない、そこにはこう、、、生身の人間としての宇多田光が見えるのだ。

希望でも理想でも願望でも妄想でもない、生身の、生きた人間のその感触。音楽がそれを齎すとはどういう事なのだろう。確かに願望や妄想といってしまえばそれまでだが、ならばここで言い切ってやる。宇多田光は、まだこれより更に素晴らしい曲を書く。書くのである。これは、希望でも理想でも願望でも妄想でもない。本質的な確信だ。

恐らく、それを告げる為にあの夜の宴、"Wild Life"は開かれた。何かが熟れ落ちる時のような、憂いの時を恐らく人間活動で潜り抜けて、光はまた素晴らしい、より素晴らしい曲を携えて戻ってくる。SC2を聴く度に、その確信はより強くなっていく。やっぱり私は、この作品を最高傑作と呼ぶ気はサラサラ起こらないのであった。