無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Putting your images each other

一定期間、光からのアウトプットがないと次第に不安になってくる。居なくて淋しい、なんてのは初期設定なので当然なのだが、それとは別に、脳内に維持している"宇多田光像"、これが現実と乖離していないかと心配になってくるのだ。

普段光の事がアタマにない人はこういう不安・心配はない。私(達)のように、来る日も来る日も光の事を想っていると、どうしても新しい解釈なり発見なりがあったりして、像は改変されてゆく。問題なのは、多数の「ひょっとしたらこうではないか」という憶測の塊を、実際の観測によって収斂させる手段がない場合だ。要は"たった今の光"と脳光像が合致とまではいかないまでもちゃんと噛み合っているかを確かめていたいのだ。でなくば、あらぬ方向に光像が拡散していき、いつのまにか過度な理想化を押し進めてしまっているかもしれない。それが怖い。

こういう脳になってくると、本当にたった一言だけが、物凄く価値があったりする。その一言があるだけで、「ああ、光変わってないじゃん」とずどーんと安心出来る。変わってない、とは脳内像と矛盾がない、という感覚の事であって、光自身は日々変化成長しているだろう。そこは改めて知り驚けばよい。違う道を歩いていないと確信できる事が肝心なのだ。

深読み、誇大妄想だと謗られるのは覚悟の上だ。しかし、私(達)にとって、光の一言は、今までの膨大な発言を背景とした上での言葉であるから、都度その文脈を反芻し背景を読み解き、あり得べき過去の参照事項を手繰り寄せて解釈される。本人としては堪ったものではないだろうか、私としても本当に仕方がないのである。一点のヒキガネを引けば線の言葉が連なり出でるのだ。

ただ、一定期間光からのアウトプットがない時期は幾らでもあった。そういう時に私が心掛けてきているのは、理屈でなく直観で、自分の好きな事に目を向け携わる、という事だ。別にヒカルに関連する事でなくていい。光の事が好きな心が好きな事は、いつかどこかで光に繋がるのだ。今どこからどう光に繋がるだなんて見えてなくてもいい。当初はEVAとかジョーの主題歌をヒカルが歌うだなんて考えもしなかった。まさかジョン・セオドアに叩いて貰うなんて、全く想像していなかった。それでもしっかり、後に繋がっていくのである。

好きな事をしよう。いちばん好きな何かとは、その総てを、結局繋げてしまうのである。あとは人生の時間次第。ひとことでいってしまえば、自らの宇多田光に対する愛情への信頼である。他者との比較ではなく、確かにこれには自信がある。まぁこんなBlogが続いている時点で、いわなくてもわかるよ、といわれそうだけど。