無意識日記々

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特殊相対性理論

自分の書いた文章を読み返してみて「やっぱり面白いなぁ」とか自画自賛しているのは傍から見てると気持ち悪いだろうが、自分で読んで面白いと思える文章を書くのが目的でやっているのだからそうでなくては話にならないのだ。上手く書けてるなと思う事もあればこりゃダメだと思う事もあるが、まぁ総じて面白い。自分の興味あるテーマばかり書いてるから当然なのかもしれないが。

ところが。その興味あるテーマさんご本人は昔から自分の書いた曲をあんまり聴き返さないらしい。「作品とは創造という過程の副産物に過ぎない」という趣旨の発言もしているが、彼女にとっては何よりも生み出す事自体に興味があるのだ。こちらから見たら「女だなぁ」と思ったりする。私が自分の書いたアイデアを聴く事自体が楽しくて、そのついでに楽譜をいじくり回しているうちに曲っぽくなっていくのとは対局である。完成してようが未完成だろうが関係なく、耳を傾けたり口遊んだりする事自体が楽しみなのだ。

私の話は別にいいやね。光の話をしよう。光にとって作品とはもう創造に携われない、いわば自分の手元から離れた存在である。LIVEで唄う事が「歌を取り戻した感じがする」というのは、それが再創造の好機だからだ。即ち、光はナマで唄う度に唄を再解釈している(筈な)のだ。

ヘンな話だが、だからこそ光の唄う歌が僕らの耳に心に届く頃には、光の心は最早そこにはない。声というカタチになって、形に託して、僕らの心から何かが生まれるのを待っている。突き付ける現実は、我々は光の心なんか知りようがない、という事だ。分け、隔てられた時間と空間と肉体と。繋がりは幻想に過ぎない。

このバラバラな世界に、光は次々と作品を産み落とす。それらは総て否定である。出来上がった作品は、既に光の興味のない何かだ。もうそこに光の心がない事の証明である。それは、LIVEの時ですらそうだ。マイクロフォンを通し、ケーブルを電気信号が伝って鳴り響かされるスピーカーの伝える振動が僕らの鼓膜に突き刺さる頃には、光の心はもう別の所にある。しかし、嘗てそこにあった、というのも間違いない。声を、歌を追う事で、僕らは光の過去なら知れるのだ。

無意識日記を読み返してみて、いちばんテンションが上がっているなぁと思うのは、やはり新曲が発表された時である。えらい幸せそうなんだもん、こいつ。でもそこで見ているものは"光の新しい過去"に過ぎず、極端にいえばそれより前に発表になった曲と同じく"もう昔の話"なのだ。

それこそが切なさの源だ、と言い切ってしまうのは容易いが、時折、こちらからのリアクションに反応してくれる事がある。その時、僕らは光の心をちょびっとばかし先んずる。いつも新しい過去を見つめて幸せになっているが、そういう時ばかりは我々は光の未来に居るのだ。或いは、居たのだ。そうやって過去と未来が交錯するのが対話であり、歌を取り戻す好機であるLIVEにおいて、それが光による再創造の契機であるのみならず、光の心が過去と未来に挟まれた"今"に感じれるようになる唯一の時となるのだ。そこを貫ければ、宇多田ヒカルはまだまだもっといいLIVEが出来る。Wild Lifeなんてきっとまだまだ序の口なのだ。ほんまかいな。うん。