無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

No Problem, No Song

曲を書いていると不意にある感覚に襲われる事がある。「あれ、どうして今までこの風景を忘れていたんだろう」。ここまで来ると、次の音符を置くのに何の躊躇いも感じない。だって、もうそれは既に知っているのだから。あるべき姿は、見えている。

その風景の中に身を投じると、無性に泣きたくなってくる。普段せわしく生きている中で忘れていた場所。気がつけば、気がついてさえいれば、ずっとそこにあった。悔恨の念にも似た心の高ぶりは、音楽がどこから来た訳でもなく、ずっとそこに静かに黙って居た事を教えてくれるのだ。

その風景は、生きていく上で全く役に立たない。一生ずっと思い出さなくても何の支障もない。そこに行かなくても人は生み生まれ、食べて寝て死んでゆく。砂時計は何度でも翻るのだ。知らなくてもいい場所である。

しかし、なのか、だから、なのか、そこに僕らは猛烈に惹かれる。光の歌が好きな貴方は、既にその感覚を知っている。だから今ここに居るし、こうして私の書く文章を読んでいる。

『メロディーは、誰かの心の原風景。懐かしい場所からのメッセージ。リズムは、死へ向かう生命の行進の音。歌は祈り、願い、誓い。音楽は、慈悲。それ以上、音楽の難しいことは知らなくてもいいと思う。』

点の一節だ。今とっさにググッてBotTweetを書き写しただけだから正確ではないかもしれない。原風景、懐かしい場所。光ほどこれがよく見えている人は居ない。もしかしたら、生きている間中ずっと見えているかもしれない。

だとしたら、孤独だろうな。何の役にも立たない、誰も気付かなければ知ろうともしない場所にずっと居るのだから。

その筈なのに、時折その場所に、そのメロディーに共鳴してくれる人が居る。「もしかしたら、私はそれを知っていたかもしれない。」―そう言われた時の、喜びよう。孤独に変わりはないのだが、しかし何かがそこに在った。寄り添うとはこの事かもしれない。

アーティストはおしなべてそれをひとに伝えようとする。だいたい、暑苦しい。力ばかり入って、何の事を言っているのかわからない。そうしているうちに、アーティストたちは"アーティスト"になって、消費され、懐かしい場所を忘れていく。勿論、それで何の問題もないのだ。いっさいをわすれさってしまって、それでもなおひとはしあわせに生きていける。何の、問題もないのだ。

風景を忘れるにしたがい、人は光から離れてゆく。ふとしたことで思い出せばまた、光の許に戻ってくるだろう。勿論それで、何の問題もない、何も問題はないのだ。

その場所に居る時に湧き上がる心の涙は、行き場所がわからない。それを揃えるのがリズムなら、光は今もしかしたらリズムを抑えているのかもしれない。波打つ時間、翻る砂時計。懐かしい。ただただただただ、懐かしい。でもいつか巡り会っていた訳ではない。それでも何故か、知っていた。訊かれてもわからない。

だから音楽は滅びない。何の意味もない。何の問題もない。気づくかどうかだ。気付いた時は、ただ涙を流せばいい。何の問題もないのだ。

音楽が生きるならば、我々も生きる。逆のように思うだろうが、そうなのだ。歌が途絶えた時が、見捨てられた時。『見捨てない、絶対に』と云うからには、光の歌が途切れる事はない。問題ない。何の問題も、ないのだ。うん、うん。