無意識日記々

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『しごとのつカレ・イヤしても』

いつまでキプトラの歌詞話が続くんだという感じだが、私が飽きたら唐突に終わる。紐解くべき魅力がなくなれば、自然と別の話題に移るだろう。ただ、まだまだ語っておきたい魅力がこの曲には幾らでも残っているというだけである。

さて、『そういうの』が「1人で過ごす時間」であるという私の解釈が正しいと仮定する。なれば次に出てきたであろう一節は『一人が少しイヤになるよ』であろう。お笑い番組や仕事の疲れは、別に他の何かでも構わないからだ。恐らく、『少しイヤになるよ』が先に出来て、これと韻を踏みつつ人の"1人の時間"の描写へと進んだのではないか。つまり、ここに来て歌詞として踏める韻の中に"イヤになる"に対する"癒(いや)しても"が浮上してきたのではないだろうか。そういう順序で歌詞が出来ていったと推理すればしっくり来る。

しかし、となると、まぁわからなくはないものの、何故『十時のお笑い番組』なんだ?という誰しも一度は思い浮かべる疑問にぶち当たる。『弱気めな素顔映す鏡 退治したいよ』や『そういうのも大事と思うけど』といった"キーセンテンス"からは、十時のお笑い番組は出てこない。ここでもうひとつ、新たに"ヒカルの言いたかった事"なセンテンスを見つける必要がある。

それはすぐ見つかる。『ホントは誰よりハングリー』の一節だ。

この文章は何かを主張していたり伝えようとしている感じは薄いが、"本音の吐露"であるという点において、歌詞の中では非常に重要度が高い。何より、他の様々な言い回しの歌詞たちにくらべて日本語としてずっと自然である。この一節は、歌詞制作においてかなり早い段階で設えられていたと私はみる。

ここに気がつけば話は簡単だ。まず『ハングリー』と韻を踏む単語を考える。出来れば"癒し"と関係があるものがいい。"番組(バングミ)"はどうか。ハングリーとかなり近い、それも純粋な日本語だ。それに、疲れを癒やすならお笑い番組にしようか…とこういう流れで出来ていったと想像するのは難しくない。あクマで想像だけど。

ここまで来れば、周りを韻で踏み固めるだけだ。『ホントは誰よりハングリー』の『誰(だれ)』と『気持ちの乱れ隠しても』の『乱れ(みだれ)』、更には『仕事の疲れ(つかれ)』もまたこの『誰』との韻を構成している。複数のセンテンスが音韻で複雑に絡み合っている。

つまり、例えば『仕事の疲れ癒しても』の一節は、すぐ隣の『一人が少しイヤになるよ』と些か離れた場所にある『ホントは誰よりハングリー』の両方の音韻要請によって構成されている訳である。ちょっとややこしかったけど、わかってもらえただろうかな…。