無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

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やれやれ、ロンドンからなねか何なのか、日曜深夜に連ツイしてくれるってのが「違うリズム」を示唆するな。いやまぁ何でもいいんだけど。

『全然自分のこと理解できてなかったし周りの人たちのことも「知ろう」としてなくった』
せやったら一体何やってたんやとツッコミたくなるが、140字をただ書いてある通りに受け止めても仕方がない。光は誰よりも宇多田ヒカルの事を知っていたし、周りの人たちの事も理解できていた。しかし、自分がどうあるかは知ってはいてもそれが何を意味するかまでは理解できていなかったし、すぐさま周りのことが見えてしまう状態ではそれ以上を知ろうとも思わなかったのだろう。ありゃ、文字通りにとっちゃったな。

見ることと見られることは常に対になっている。それはいいとして、光の場合あまりにも見られていることの比率が大きすぎた。要は割合の問題である。見られている分量に対しての中身の量が物足りなくなってきた、というだけで何も29の女子の中身が空っぽな訳もなく。今は見られ続ける状況から一旦離脱して見る側にまわってみている、と。

ただ、それは宇多田光さんの人生の為なのやら宇多田ヒカルというアーティスト或いは社会的立場の為なのやら、はたまたUtada Hikaruの為なのやら判然としない。寧ろ、そういった分裂状態自体をリセットしていると考えた方がいいか。元々、好きに暮らせばいいのだし休みたい時に休めばよかったのだが、見られている自分の体積が大きすぎて、見る自分の心が少数意見に感じられてしまっていたのだろうか。それはそれでフェアな気もするが。

元々私は"Pop Music"というものがよくわからない。渋谷陽一の発言をここでも引けば、Pop Musicとは「他者の音楽」であり、ならば見られている事は至上の事なので中身はどんどん空虚になっていくのがPop Iconの道な訳で、光の"リセット"はそれに逆行している。なら最初っからPopであることにこだわらない方がよかったのかもねぇ、と真正面から全否定をしたくなる―のが私の性格だ。ファッションの事なんてわからないし、何よりもピンとこない。それでもこれだけ光の作ってきた音楽に魅了されているというのが可笑しな話なのである。事実、素晴らしい。

折角光のツイートがあったのに私の嗜好の話をしても仕方がない。しかし、まぁどっちに転んでも受け止める準備は出来ている。要は面白けりゃいいのだが、苦しさやさびしさといった人生のフェイズに耐えられないというのなら、とても人間的ではあるなと思った。"人間活動"が実を結んでるってことだね。となると、やっぱりアーティスト活動に直接プラスになるという感じでもないんだわなぁ。はぁ。