無意識日記々

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何だか難しいだけの話

『私は今「見る側」に立とうとしてます』―つまり、"まだ立ってない"ということなんだろうか。いちいち微妙な節回しに過剰に反応されても当惑するだろうが、気になる。

「見る側」というのがどんな立場なのか、推し量るのも難しい。見られる側との違いは、その当事者感覚のなさであろうか。無責任といってもいいかもしれない。何しろ、対象として何を見るかで事情が変わる。これが"見られる"だったら、見られる相手が誰であるのかは、人数が増えれば増えるほど曖昧になっていくだろうし、どうでもよくなってくるが、見る側に立つと、あと同じ見る側の人間が幾らいようと二次的な影響しか及ぼさない。見る対象が何であるかが大事になってくる。

ここが難しいのだが、見られる事を意識してキレイになっていくと中身が空っぽになるが、それは自立した1人の人間である事を意味する。平たくいえば社会人である。見る側に立てば、見られる事を忘れ、1人としての個は失われていく。見る対象に依存した存在となっていくからだ。ここが、ややこしい。

ひとことでいえば、誰よりも見られる立場に居ながら社交性を構築していかなかった、抗ってさえいたことが、話を難しくしているように思う。周りがなんといおうと気にしない、というのでもなければ、周りのいうことを気にして社会的人格を演じ続けたわけでもない、そんなバランス。両方への揺らぎ方が独特だったから、大衆性と玄人受けの両方が可能だったのだ。通常ならこんな状態は長く続かず、自我が分裂して精神が崩壊するところだがそれを乗り切ってきたのが光なんだ。

今見られる側から見る側に移行しつつあるというのなら、社交性についてどう考えているかは問うてみたい。社交性の究極といえば、日本でなら皇族である。基本的人権もなくプライバシーもなくそれでいてひっきりなしに外交に駆り出される。どこに行っても注目の的。見られる事自体が職業、いや義務というべきか呪いというべきか、本人たちの思惑はともかく、その立場を受け入れているように思える。苦行だろうなぁ。

何が言いたかったんだっけ。そうそう、見る側に移るのなら、人と人との関わりの中で自分自身が浮かび上がる機会が減る。一方、自らの内面と向き合う時間は増える筈だ。見る対象とは、1対1なのだし、更に向こうから見つめ返されることもないのならそこにあるのは自分だけの世界である。尚且つ、それは"社会的には"自立からは程遠い。社会人とは、関係性の中で消費可能な存在でなくてはならない。社交性である。社交性の究極としての皇族の機能がまさにそこに居て見られている事自体である事を想起すれば、そこに個人の内面が入り込む余地はほぼない。だからそれと対極するのが人間活動なのだ、といわれれば、その通りであることだなぁ。