無意識日記々

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16歳の夏休み

NY時代はバレンタインし損ねてた(というのか)って光がツイートしているが、照實さんに渡した後「食べていい?」と聞き返した萌えピソードはNY時代じゃなかったのか。まぁいつでもいいんだけど。

一応大ざっぱに言って、バレンタインもキリスト教の行事のひとつという事になるんだろうか。概ね無宗教の日本人にとっては大概どうでもいい話だが、キリスト教の誕生日にはケーキでなくカレーを食べハッピー・ハヌカと先に(でもないか)言う光が、この人間活動中にどういうスタンスに変化するか、或いはしないのかというのは興味がある。

様々な土地に赴くなら様々な宗教・宗教観と出会う筈だ。特に英語圏であるならばキリスト教は依然幅広く普及しているだろう。聖書から名前をとったアルバムの一曲目で悪魔について歌うという仕掛けは、ある意味売れすぎなくてよかったのかもしれない。

少しばかり長めに生きてきて思うのは、人はいちどイメージを作り上げたら10年だろうが20年だろうがそのまま引っ張り続けるという事である。未だに宇多田ヒカルはタメ口で、なんて事を言う人々が絶えない。99年の夏休みの間だけの話だったといってもいいのに拘わらず。これは、ヒカルがあんまりメディアに登場する機会が多くないのも関係はあるけどね。例えば今明石家さんまについてブラックデビル阿弥陀婆の人だよねと訊き返してくる人は希有だろう。毎日テレビに出てイメージを上書きし続けて、やっと過去は過去になるのである。

そういう意味において、熱心なファンを除いてはヒカルは海外ではまだイメージ自体を持たれていないし、日本ではあまり日常に溶け込んでいるとも言い難い。寧ろ日常にあるといえるのは、99年の夏休みのヒカルの方なのかもしれない。それはもう一生ついてまわるのかもしれない。テレビに毎週出るようになったりしたら別だけど。

こうなってくると、人間活動が長引けば長引くほど、99年夏の宇多田ヒカルだけがイメージとして生き残っていく。別にそれは悪いことでもないんだけど、時計って止めたまんまではいられなくって、文字盤のうち目立つ所以外は顧みられなくなっていくのかと思うと、なんとも落ち着かない感じが残る。

でも、なんだかんだ言って30前後の女性を15の時のイメージで見続けるのは無理がある筈なので(既にキビシイと思うんすけどね)、次の"イメージ・チェンジ"が地味にでも奏功する事を祈るばかりである。