無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

あんた暗い人スーパースター

アダム&イヴで曲を書いてみたらと提案されてもそれを蹴っ飛ばしボニー&クライドの曲を書き、クリスマスまで期待で胸が膨らんで待ちきれないのかと思ったら「そんなの関係なく過ごそうよ」という曲だったりとどこまでキリスト(教)に対してアレなんだという光だが、はてさてPassionという曲はどういうつもりだったのだろうか。

もう六年半前の話になるが、皆覚えてるかな、Hikki's Websiteで次の新曲が出るとなった時に発表された曲名の表記は最初「passion」だったのだ。全部小文字。最初これをみた時私はLettersの続編みたいな曲調だろうかと想像を巡らしたのだが、程なくして後日「Passion」という表記に変更された。スタッフがUP時にミスしたのかヒカルが伝え損ねたのかそれともその時リアルタイムで変更があったのか、今では知る由もないのだが兎も角僕はその新しい表記をみて、「官能的で艶のある曲調から何やら光り輝く音像」へと印象を変えていた。果たして、その印象変更は概ね正しい方向に向いていたといえるだろう。艶のある歌い方は歌の最後の最後に出てきた。あそこだけならpassionだが曲全体となればやはりPassionだなぁと妙に納得した覚えがある。

何故pがPになっただけでそんなに印象が変わるかというと、英語で普通名詞としてpassionと書くとお馴染み"情熱"という意味になるが、これが"Passion"と書くと"受難"或いは"受難曲"といった意味になる。そういう早い話がキリスト(と聖書)にまつわるエピソードになるのだ(大ざっぱに過ぎるなー)。そういう連想がはたらくから、私は"Passion"という表記に何か神々しいものを見いだしてしまうのだろう。

しかし、あれだけキリスト(教)をアレしている光がキリストの受難についての曲を書いたのか? いやそれは恐らく違うだろう。ひとつには、先程も触れたように音楽には"受難曲"というものがある。プチジャンルと言っていいかもしれない。特に有名なのは大バッハマタイ受難曲で、この曲はしばしば近現代の西洋音楽における最高傑作と称される。私も未だにフルで聴いたことがない。とまれ、受難曲と名がつくとどうしても「音楽家として、勝負に出たな」という風に先入観をもってしまう。光も、Passionという曲には随分と気合いを入れたのではないか。キリストの受難そのものというより、音楽として歴史上の受難曲並みに重要な楽曲ですよという名付けだったのかもしれない。いすれにせよキリスト云々は二次的である。

でも、なんといっても、大文字で書いていようがこのPassionはやっぱり"情熱"という意味である事に揺るぎはないのだ。この曲自体には情熱という言葉はおろかヒカルならではの情熱的な物言いも消え失せていた。それでもこの曲が情熱なのは、そう、今まで見てきた通り、続編の歌であるKeep Tryin'で『情熱に』と繰り返し出てきたからなのだ。Keep Tryin'まで聴いてやっと、Passionは情熱に昇華するといっていい。受難から情熱へ。このダイナミズムこそが六年半前"ここで起こったこと"なのだ。

続きはまた。次回かどうかはわからない。