無意識日記々

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モーツァルトのレクイエムはラテン語で歌われている、でいいのかな。英語のわかる光なら、まぁ一応凄くおおざっぱに印欧語族なので共通点はあるのかもしれない。そこから脅威の洞察力で…いや無理無理。

恐らくもっと説得力のある説明は、ウォルフガング・アマデウスモーツァルトさんと宇多田ヒカルさんが互いにに非常にレベルの高い音楽家で、音楽への理解度が共に異様に高い為、コードやリズムやメロディーやハーモニーといった音楽的要素だけで意志の疎通が出来てしまう、というものだ。こういう場面ではこのメロディーだよね、みたいな共通認識が既に、たとえ両者自覚的ではないとしても、存在していると考える訳だ。常人には雲の上の話だが、天才音楽家同士ならそういうこともあるかもなぁとついつい納得してしまいそうでは、ある。

ただ、ヒカルのコメントは、

『言葉の力とか音楽の力って"在る"よね、って凄く確信を持てたキッカケだったんですよ。だからいつまでも好きなんですよね』

という具合なのだ。音楽だけでなく、言葉からも何かを感じとっていなければ、2つを並列して語らないだろう。それどころか、音楽の力を強調したければ、言葉の力に頼らずとも、とまで言いそうな気がする。よく言うじゃん、"音楽は言葉の壁をいとも簡単に乗り越える"とか。そういう具合に。でも光はそうは言ってない。音楽も言葉も両方があって、力になるのだ。それぞれの力。


私には夢が在る。究極の歌。世界にもしかしたらひとつっきりしかない歌。いや、幾つであっても構わないのだが。何かといえば、ある言語について、どうしようもなくそうなるしかないという歌詞とメロディーの組み合わせを持った歌である。まぁそうなると各言語にある事になるが、それはまぁいいや。つまり、歌詞もメロディーも"こうである以外有り得ない"と思ってしまう歌。そんな究極の歌である。

光も同じ夢を見てないかな。彼女にとって夢は夜寝てる間にみるものだからないか。いやでも歌を作り続けていればその境地に辿り着けるかもしれない。

光は歌詞を書く作業について、必ず"答は既にある"という態度をとる。歌詞を自分で当てはめるというよりは、"正解となる歌詞"が既に(どういう形態でかはわからないが)どこかに"在って"、それを見つけ出すプロセスなのだということだ。

私は、実はこれにピンと来ない。音楽(器楽)ならわかるのだ。ここにこういうピースを嵌めればこっちはこうなるからここはこうなって…という具合に楽曲の構造は次々と決まっていき、最終的には執筆者の意図など遥か超えた所に辿り着く。そうなれるのは、音楽が実在でありそれ自体のもつ秩序が構造を決定するからだ。原子物理学のようなもので、カンタンなルールさえ決まっていれば総ては自然に仕上がる。

しかし、言葉はそうはいかない…という話の続きからまた次回。あー眠い。