無意識日記々

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言語話のニーズの多寡は考えない

どういう文脈で光の名前が出てくるかというと、「何故彼女はモーツァルトのレクイエムの歌詞の内容がわかる気がしたのか」という、何度か当欄でも取り上げたイシューに於いて、である。

言語とは、その"無関係なもの同士を結び付ける"特性から、原理的には無限のバリエーションを持つと考えられる。ある内容に対して割り当て可能な実体は無限にあるからだ。その中でも、図形と音声はその識別性の高さから重宝される。匂いや味によっても言語体系を構築する事は可能かもしれないが、準備がとても大変であり現実的からは程遠い。特に音声はリアルタイム性が強く、かなり早い時期から使用されていた事が窺える。あとは身振り手振りなんかも有り得るが、これは手話だな。

そんなこんななので、あるコミュニティーに於いて情報伝達手段として発達した言語体系は、その外に居る人間にはさっぱりわからない。図形や音声と意味内容との関係性を把握するのは無理だからだ。無関係なもの同士が結び付いている訳だから。

更に、構文構造が言語ごとに異なるのも大きい。もし日本語と英語の構文構造が同じだったら、辞書さえあれば誰だって翻訳が可能である。図形の置き換え作業をするだけで文章が完成するからだ。しかし現実は過酷で、日本語と英語は主語や述語の位置が異なる上、位置そのものが内包する情報も異なる。日本語の文章は今ご覧のように総ての単語を隙間なく並び敷き詰める。それを助けるのが文字通りの助詞である。一方英語の方は1つ々々の単語がスペースをあけて並んでいる。日本語と違い文字が26種類しかないから全部繋げると読みにくいからだが、それと共に、単語の出てくる位置情報自体が重要なのだ。パッと見て、文章の構造がある程度視覚的に捉えられるようになっている。一方、日本語の方は逐次的に頭から順に読んでいけば内容は次第に頭に入ってくる。同じ内容を伝えるにも、まず意味を託す図形や音声自体が異なり、それらが形作る構造も違えばその構造への意味の持たせ方も違う。

つまり、全く知らない言語を目の前にしたとき、耳にした時その意味内容が伝わるだなんて奇跡でも有り得ない、ハズなのだ。しかし光にはそれが起こった。これについて何か筋の通った説明が出来るだろうか、というのがこのイシューの問題設定である。私は全くこれについて回答を持ち合わせていない。これから考えながら書いていくのでした。さてどうなることやら。