無意識日記々

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目に余る目の余りよう

エンターテインメント・コンテンツは長らく広告収益モデルと共にあった為、作品の提示・提供は"何かと絡めて"行われるのが常であった。しかし、中でも音楽は、他の、時には競合するエンターテインメント・コンテンツの中に紛れ込まされて売り出される事が多い。漫画というコンテンツは漫画単体で完結して提示されるが、音楽は様々な場所に他の何かとともに現れる。

具体的には、テレビでいえばドラマやアニメの主題歌、CMソングなどだ。事実として、「それでは聴いて下さい」と音楽を主体に提示してくれる番組より、人気ドラマの主題歌になる方が売れる。そんな具合なので音楽とは常に"付随物"という印象が拭えない。何かの添え物、副菜という感じだ。

これは単純に、音楽を聴くという行為は"目が余る"からだろう。人間、視覚が重要である。漫画を読んでいる時は"耳が余っている"事に大半は気付かないが、目が余っている場合はいつのまにか手持ち無沙汰だ。

なので、音楽の提示における普遍的な課題は視覚面の補強をどうするか、である。ドラマの主題歌が受けるのは、視覚的に印象的な場面と音楽がリンクするからである。

そこをついて大ヒット、というか音楽の世界を変えてしまったのが米国のMTV、PV文化なのだが、日本ではよくも悪くもPV文化は定着しなかった。MTVが隆盛を極めた80年代に日本の地上波では毎週ミュージシャンに生出演を強いるカウントダウン番組が強かった。この理由を考えるのは難しいが、ひとつには日本ではアイドルが強かった事が挙げられるかもしれない。ファンにとっては、アイドルがテレビに生出演している事が重要だったのだ。それにいち早く目をつけたのがミュージック・ステーションで、必ず毎週アイドルを生出演させる事で驚異的に安定感のある視聴率を弾き出し続けた。うまくやったもんだ。

つまり、日本では音楽番組ですら音楽は付随物だったのだ。90年代の歌番組、Hey!x3やうたばんはトークを主体に合間に曲を挟む形で番組を継続してきた。何とか競争の厳しいゴールデンタイムに音楽番組を、という制作者側の苦労が滲み出ているようだった。まぁこれも、元を辿れば広告モデルであるが故の苦労なのだが。

つまり、本当に音楽メインで、特にテレビを観る層のような圧倒的マジョリティを相手にするには本当に大変なのだ。音楽が付随物になるのは、先述のように視覚・聴覚のバランスにその源があるから構造的問題どはあるのだが、ここ日本に於いては更にアイドル文化の強さが話を更に難しくしている。CDをいちばん売るのが現在秋元康とジャニーさんなのはある面歴史的に必然的な結果であり、日本の大衆文化が煮詰まってきている証拠なのかもしれない。

そんな煮詰まった状況の中で現在アーティスト活動を休止しているヒカルは、音楽を主菜として提示しえる数少ない存在のうちの1人なのだが…という話からまた次回。