無意識日記々

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目に余るオシシ仮面状態のエントリー;

音楽を主菜として提示できるいちばんの機会は何と言ってもLIVEである。小説や漫画やアニメや映画やゲームなどの他の娯楽に較べて何だか押され気味なコンテンツである音楽だが、ことLIVEに関しては全く他の追随を許さない。

舞台関連、つまり演劇やバレエや歌舞伎や能などのLIVEなエンターテインメントは他にもあるが、それらは総て"書き割り文化"なのである。どういうことかというと、演劇・芝居というのは書き割りによって「ここはお城ですよ」とか「今は中世、場所はヨーロッパですよ」とかの注釈が必ず着く。「ここは舞台ですよ」とは基本的に言わない。言ったら芝居でなくなるケースが大半である。その点は小説と変わらない。文章で「昔々あるところに…」と言い出して話を進めるのも、実際はそうではない(あなたは部屋で本を開いて読んでいるだけだ)けれどもとりあえず「そうであるとしよう」と約束する"書き割り文化"の一端なのである。それは漫画やアニメやゲームや映画もおんなじだ。

音楽の生演奏にはそうした書き割りは必要がない(あっても構わないけど)。横浜アリーナのセンターステージは、横浜アリーナのセンターステージであって他の何かを表現している訳ではない。アナログレコードや太陽をモチーフにしていても別にそれによって観客に「ここにレコードがあるとしましょう」とか「これは太陽のつもりです」とかを約束する訳ではない。そこにあるものはまさにそこにあるものなのだ。

そこで今歌う歌手は、何をも代替した存在ではない。ステージ上の宇多田ヒカルは歴史上の人物、例えばジャンヌダルク小野小町を演じる訳でもなければ、想像上の生き物、メデューサやドラミちゃんを演じる訳でもない。強いていえば"宇多田ヒカル"を演じてはいるがそれはまた意味が違う。とにかく音楽のLIVEは、他の何の代わりでもない、それそのもので勝負する空間なのだ。この強みを持っている娯楽は、スポーツとか花火とかダンスとか、そういった類になる。これらは、娯楽として必ず歴史に残り続ける。何故ならば、何かの代替という観点からいえば、文章や絵画から映像、そしてバーチャルリアリティへとどんどん進化し変化(へんげ)していく為、時代と共に移り変わっていくのだが(それが出来るのが代替の本質である)、それそのもので勝負する世界は、他に何も参照するものがないのである意味最初から娯楽の終着点なのだ。つまり、時代とともに古びたり色褪せたりしないのである。

それが、生演奏の音楽の強みである。如何にテレビでバラエティーに視聴率で負け、円盤の売上でDVDに負けても、音楽にはLIVEがある。これを活かさない手はない。

…のだが、宇多田ヒカルというミュージシャンは、今後の事は兎も角今までは"LIVEは二の次"の人だった。ひたすら創作に打ち込み、作品として残る何かを生み出し続けている人なのだ。果たして、それで"主菜"なんかになれるのか。以下次回。