無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

もう何仮面でもいいや(笑)

そもそも、音楽が主役であって欲しいとヒカルが思っているかどうかから考えないといけなかっただろうか。しかし、ここは難しい論点だ。

歌は気軽に楽しんで欲しい、肩肘張らずに人生の彩りのひとつとして接して欲しい、という風にも考えてはいるだろうが、にしては出て来る楽曲が気合い入り過ぎている、というか、どうぞお気軽に楽しんで下さい、という体裁でもないように思うのだ。

これは、昔からある本質的な論点で、光本人はPopsを志向しているのに(それがいちばん前面に押し出されたのはUtaDAのThisIsTheOneだが)、本人の真剣さにどうしても聴き手は昔大きく心揺さぶられてしまう。あの歌唱の集中力とシリアスさでは致し方無いともいえる。

ここでミスマッチが起きているのかどうか。作品を真面目に鑑賞するような層が果たして宇多田ヒカルを聴いているのか。J-popだからといって避けられてはしないか。これも昔からある論点だが、J-popの人たちも大概真剣に曲作りしているだろうにそれをそういう風に軽くみられるのは音楽性というより見せ方、売り出し方から派生する偏見だろうか。

例えば、クラシックとひとくちに言ってもふざけた曲や気楽な曲は沢山ある。そういった側面を押し込めてしまうのはそこにある見せ方の様式のせいだろう。あれだけ正装で固めて由緒正しそうなコンサートホールで咳払いひとつも憚られる雰囲気の中で演奏されればどうしたって高尚なイメージがついてしまう。そのセッティング・アレンジメントが聴き方、接し方を決めてしまうのだ。

ヒカルの曲も、その内容に見合ったセッティング・アレンジメントを施したい、というのがこの一連のエントリーの主旨である。PVDVDの"ミスマッチ"(手間暇の割に5分は短い)みたいなことがないように、どのメディアで、どんなフォーマットで、どんな規模で、どんなタイミングで提示するか。日進月歩の技術進歩の中で取り得る選択肢は様々だが、どうにもこれといって浮かばない。というか、答として既に"ライブ・コンサート"というものがあるのだから、それ以外の道を探るのは相当に険しいのである。

メディアミックスというのは、ひとつのキャラクター、ひとつのストーリーが生まれた時、小説、漫画、テレビアニメ、劇場版、DVD化、ゲーム等とどんどん展開していくものだ。ひとつのコンテンツの見せ方、それとの接し方を多様に提示する方法ともいえる。ヒカルの楽曲も、そういった見せ方の多様性を探りたいと思うのだが。次にどんな展開が可能か、引き続き考察してみたい。