無意識日記々

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仮面=新しいペルソナ

つまりヒカルは音楽を提示する時に「視覚」をどう捉えているのかという話なのだが。

UTUBEのGBHPVはその試金石、スタートラインと言っていいのではないか。前も述べたように、PVのコンセプト自体がYoutubeの存在を前提にしている。エンディングのアイデアが何よりそれを物語る。ニコ動でも定番の「歌ってみた」動画をオフィシャルにやってしまうという発想。UtaDAカラオケコンテストなどもヒントになった事だろう。一応私も便宜上"PV"と呼んではいるが、そろそろ"別の何か"なんじゃないかという感じもしてきている。

音楽に映像をつけるのは冒険である。危険でありリスクでもある。個々のイマジネーションを殺ぐからだ。その自由を奪ってまで視覚に訴えかける何かを提示すべきかどうかも疑問は残る。寧ろ、人の視覚をクリエイティブに刺激する為だと逆から捉えるならば、視覚情報はなければないほどいい。それもまたジレンマである。

GBHPV@UTUBEを教訓にするならば、やはり提示する"場"のセッティング・アレンジが重要となる。どのようなデバイスでアクセスして貰うか。それは未来にならないとわからないか。

古典的な方向からも考えてみる。前述したように、PVDVDは一曲で終わるから呆気ない。我々はUHシリーズでメイキングやなんやを添付した状態でPVを何本も見れるDVDをもって、何かひとつの作品として見なし評価する。これをもっとドラスティックにアピールするならコンセプトアルバムを作って全曲のPVも撮影してエンドレスいやシームレスに映像を流し続ける、なんてアイデアもある。宇多田ヒカルのポジションや使える制作費の規模を考えればありえない話ではない。まぁ、もし宇多田光さんがGBHPVと同様にディレクションするとすれば完成まで3年はくだらないとは思いますが。

宇多田光名義は、PV監督の名義というよりひとりの表現者としての名義であるという。ならば、この名義の許でならもっと幅広い表現方法を用いた時もこの呼称を使ってくるだろう。作家はもうペンネームが決まっているらしいから別の道、例えば役者、例えば画家、例えばダンサーなど(最後のはないかな…)、いろんな表現について光の名前を見る事になるかもしれない。

その多様性の端緒がGBHPVならば、そこから何を読み取っておくか、だ。ファンとの距離感や、彼らとの繋がり方、彼らと積み重ねてきた歴史、ヒカルが音楽にどのようなイメージを持っているか(例えば、GBHの展開部では部屋が暗くなりミラーボールが回る、とかだ)、自分が魅力的に映るアングル、などなど、楽曲だけでは表現できないようなことも、映像の助けを借りれば表現できる。光が復帰後どれ位の頻度で宇多田光名義を用いてくるか、「余った目をどうするか」という問題の対処法を推し量るには、それがひとつの大きな目安となるかもしれない。