無意識日記々

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言いたいことなんか無い?

音楽が売れなくなっている原因をインターネットに求める人は多い。確かに、違法ダウンロードやらYoutubeやらの手軽さが購買行動を抑えている感は否めない。しかしそれは本質的な困難ではない。法整備次第では解決出来る問題だ。

もっと深刻、というと論点がぼやけるか、criticalな問題がある。歌詞の役割が変化する事だ。

昔から歌はストーリーやメッセージを載せて他者に伝達してきた。歌に載せる事で人々の注目を引いたり、心にとどめやすくなるからだ。勿論メロディーとストーリーの相乗効果もあるだろうが、やはり歌になれば演奏会やらラジオテレビなどで取り上げられる機会が格段に増える。裏を返せば、歌にさえなるなら歌詞の内容は何でもよかった。

しかし今はインターネットがある。ストーリーやメッセージは直接Blogにでも書けばいい。どうやって注目を集めるかといえば、内容の効果そのものである。誰か有名なアルファブロガーやらポータルサイトやらに取り上げられれば自分の書いた事は何千何万という人に伝わっていく。回りくどく歌詞にするなんて必要はなくなった。

伝統的なフォークソングのスタイルが全く廃れてしまうとまでは思っていない。それ自体が興味を引くものであれば、世の事情はどうあれ楽しめる筈だ。しかし、歌を利用して、という発想は相対的に減るのではないか。

となれば、歌は歌独自の工夫と魅力で人を惹き付けるようになるだろう。歌詞は、内容やメッセージ性より、何か他の要素で受け入れられてゆく。

ひとつは、機能性である。既にドラマやアニメ、映画といった分野で"その場面で機能する"歌は大量に作られてきている。しかし、それがもっと先鋭化するのではないか。アニソンならアニソンのノウハウが蓄積され、このスタイルならこういう歌詞がいい、といった技法がより豊かになるだろう。

もうひとつは音韻構造の徹底である。言いたい事を何か言う動機が減れば、それだけ"言う事"自体、"歌う事"自体の面白さを追求するバイアスが強まるのではないか。日本語Popsにおいては余り目立たない感じがする(そんなにラップ/ヒップホップが極端にビッグでもない)が、これから少しずつ「別に歌う事ないよねー」という空気が強まればもっとフィーチャされていくかもしれない。


もしそういう流れになっていったとしたら宇多田ヒカルはどういうアプローチを取ればいいか、という話を次回にするのが今までの通例だったのだが、考えてみたら上記2点はヒカルが得意中の得意とする所である。特に後者の音韻構造構築術は独壇場で他の追随を許さない。寧ろ、これから2〜30年かけて日本語Popsはヒカルの偉業をなぞる事になるだろう。時代が追いついてくれるのはきっとそれ位後である。ヒカルはインターネット時代に入っても、特別作詞のアプローチに新しいものを取り入れる必要はないのであった。いやまネット世代だから当然の事なのかな…。