無意識日記々

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歌い相手

確かに、「話す相手」というのは人間いつもたった1人である。いや、「聞く相手」と言った方がいいか。話者に対して聞き手は何人同時に居てもいいけれど、話し手は同時に二人居ない。必ず1人々々が順番に喋る。講演などの多対一の状況で一方的に話す場合でなく、聞き手と話し手が逐一入れ替わって会話という名の言葉のキャッチボールが始まると基本的にその関係性は一対一に収束していく。話し手が次々入れ替わる中、"返す"だけでなく横から第三者が口を挟んでくると「会議」(アタマに"井戸端"がついたりもする)。話し手と聞き手が全員異なれば「伝言ゲーム」になったりもするが、対話の基本はやはり一対一である。

何の話かといえば歌詞について、である。歌詞は基本的に言いっぱなしで、何かが返ってくるという事がない。デュエットのようなものでもない限り。語り手側としては、これはなかなか難しい状況だろう。相手の目を見て言葉を選べないというのは想像以上に"どこから手をつければいいかわからない"。

こういう時に、まず話し掛けてもいいと想定できる相手が居てくれれば、助かる。それが光の場合は親友だった、とみる訳だ。別にこれは単なる"とっかかり"なので、そうやって書いた歌詞から種々に変化させていけばいいのだ。跡形もなく変わってしまっていても構わない。要は、書き始められればいいのである。

そんな風に妄想してみると、Making Loveの歌い出しが『〜どこから始めよう』なのは何か面映ゆい気がしてこないだろうか。もし光がいつも親友に話し掛けるように歌詞を書き始めているとするならば、それだけ沢山彼女に向かって言葉を紡いできたというのにいざ本当に彼女自身に歌で話し掛けようとして出てきたことばが「どこから始めよう」だった、なんてなかなかに示唆的である。あんまりにもいつもそうしてきたから一旦身構えると何から話し始めればいいのかわからなくなる、今迄さんざ"とっかかり"として(仮想的に)話し掛けてきたせいで歌詞の可能性がやたらめったに広がりすぎる、そして失われたとっかかり、というその今の状況と心境を綴りながら彼女に向けた歌が始まる、という仕掛け。変な言い方だが何だか気恥ずかしい。(?)

そうなると、Making Loveの歌詞というのはかなりすらすらと出てきたんではないかという妄想が膨らむ。今迄大量の歌詞を生み出してきたその"装置"のいよいよ本丸に切り込んだのだ。となれば、この歌の詞を書くというのは光にとって歌詞を書く事そのものだったのではないかという気がする。光自身がどう思っているか、一度訊いてみたいもんだな。