無意識日記々

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Who is me ?

みるくさんが苺の主だった「歌い相手」だったのでは、という妄想には根拠がある。根拠の方も妄想なんだけれども。それは、光のいちばんの「話し相手」がくまちゃんだという点だ。その贈り主がみるくさんだとすれば見事に対称的である。

ヒカルが歌詞を書く際、実際にみるくさんに話し掛ける訳ではなく、話し掛けると"想定して"歌詞を書く訳だが、くまちゃんに話し掛ける場合は事実実際に話し掛けている。しかし相手腹は綿だ。どっちもどっちのような、大きく違うような、奇妙な捻れ具合だが、くまちゃんに話し掛ける事でセラピーに近い効用を得てきた…どころか、「宇多田ヒカルといえばクマ好き」という概念まで定着させてしまったのだからまさかその影響を侮る訳にもいクマい。

そして、問題なのは、みるくさんに話し掛けて(いると想定して)出来る歌詞がそのまま君やあなたに向けられているのに対して、くまちゃんと戯れている時にできた歌が「ぼくはくま」という一人称だった事だ。光がくまちゃんに話し掛ける歌にはならなかったのである。

歌い手が「ぼくはくま」と言う効果もこれまた大きく、最終的には百万単位の円を注ぎ込んでギガントを開発・実現させるに至る。光がくまちゃんに話し掛ける歌だったらこんなものは必要なかった。ヒカルが『ぼくはくま』と歌うから必要だったのだ。

ここの含意はかなり慎重に検討を要する。二人称の化身が自らの分身として贈ったぬいぐるみが一人称の象徴として機能しているのだ。

今、敢えて抽象的に書いてみた。要はくまちゃんを介して歌に出てくる人が「私とあなた」から「ぼく」に一旦変わった、という話なんだが。分身とは逆に言えば本体の不在である。くまちゃんの存在がそのまま「あなた」の不在に繋がり『ぼくは』という歌に転じたとも考えられる。嗚呼、話が難しい。

しかし、光は元々ひとりで過ごせる人間だろう。『あなたに会えてなかったら 親友はいらないネ』という歌詞からもわかる通り居なきゃ居ないでそれまで、という感覚でもあった筈だ。しかし一方で強烈な孤独感を常に感じ取れるこどもでもあった。母の不在に心切なくなる場面も多かったようだし。『知り合って10年』の間に出来た歌詞と、くまちゃんを通じて一人称で歌われた歌詞とを、もう一度子細に検討してみる必要があるな。まだまだこの構図の真意は見えてこない。