無意識日記々

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私と私の話を綿が橋渡しするお話

くまちゃんを「話し相手」と形容したが、あれはモフモフの毛皮にクマれた、もとい、抱(くる)まれた綿である。『くるまじゃないよ くま くま くま 』。い、いや、この場合はクマじゃなくてくるまでいいんです、言い間違えてすいません。

再び。あれは綿である。そんな事は光は百も承知だ。ぬいぐるみに話し掛ける姿を見て(というか読んで)ある人は言うに(海胆ぃ)事欠いて光を痛い子呼ばわりしたらしいが、まぁそれは否定しないまでも(そこはしとけよ)光は結構アレで冷静である。いやホント。

前回ぼくはくまが一人称の歌である事に触れたが、なぜ一人称になったかといえばそれが綿だからだ。くまちゃんに光が話し掛ける歌にならなかったのは、つまり綿だからだ。綿に本気で歌い掛ける訳にはいクマい。だから光は最終的にくまちゃんになりたがったのだ。くまちゃんが生きてそこに居ればどんなにか嬉しいだろう、と。そこに本当に自らの身を投じれてしまう所がやはり一味も二味も違うけれど。いつでも本気の人の本気を見た気がする。いやまぁ即ちいつも通りなのか。

あれは綿だから一人称。考えてみれば不思議なものである。話し掛けるとか歌い掛けるとか、そもそも人が言葉を覚えるには絶対に他者が必要である。同じ場所同じ時間を過ごしていなくても書や畜音で残されたもので何とか学習できる、にしてもやはりいつかどこかには他者が必要だ。じゃあ一体どうやって"最初に"言葉が生まれたのかは真に興味深い話だが今はそれは置いておくとして。兎に角、言葉は他者の存在抜きには語れない。「を語る」にせよ「について」語るにせよ。

多くの人が育ての親から言葉を学ぶ。従って初期の初期は世界と親の区別がつかない。しかし、やがて"自己"という概念が生まれる。まず"私"が居るのではなく、世界が在って親が居て、その後に"私"が居た事に気付くのである。周りの人間と同じように私もまた世界の登場人物のひとりなのだと。それと前後してひとは言葉を覚えていく。

したがって、"独り言"というのは人にとって随分後の現象なのだ。まず他者が居てそれを認識した時期があって、それを踏まえた上で他者の不在時に独りで言葉を発する。他者が居て初めて独りになれるのだ。

なので、ぬいぐるみに話し掛けるというのは結構一筋縄でいかない。人の不在を補い他者との会話のように見せかけてその実あれはただの独り言だ。だって綿なんだもん。綿のパートは光が喋ってる。時に声色を変えて。誰だ今ピノコを思い出して苦笑いした奴は。私だ。それはさておき。

もっといえば、綿がある事でその人の"純粋な"独り言というものが抽出できるのだ。綿が私という存在を言語によって浮かび上がらせる為の橋渡しをする。光の純粋なひとりの言葉、誰に話し掛けるでもない純粋な独り言をくまちゃんは腹を綿でいっぱいにして実現してくれてきたのである。他者を知り、他者から切り離された自己。不思議な世界観だが、そこで漸く光は自分と向き合えたのだともいえる。まぁ、ここを読んでくれてる人達にとっては釈迦に説法な事実だけれどね。