無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

宇多田光

小津の話をし始めると止まらなくなるので今朝は途中で打ち切って別の話題に切り替えたのだが、夜もやっぱり小津っぽい所から。

光がGBHPVを「宇多田光」名義でディレクトした件がずっと気にかかっている。別に「宇多田ひかる」とか「うただヒカル」とか「ウタダヒカル」とか、音楽活動と区別する為には他に幾つかバリエーションがあった筈である。なのに、わざわざ本名と同一の表記を選んだ。本名とは、光のプライベートのペルソナを表す名ではないのか。なかったのか。勿論たかが名前の書き方なのだが、偉大な人程名前はよいものだ。光が映像作品を手掛けるというペルソナは、ひょっとしたら歌手のヒカルよりずっと光の人生に寄り添っていく事になるのだろうか。

そうなったらこのblogは今より更に随分鬱陶しいものになっていくに違いない。現時点でも煩わしいのにそれに輪をかけて「小津に較べたら」とか「こういう時小津なら」とかいちいち書き始めるのである。あぁ想像するだけで面倒臭い。そんなに好きなら小津blogでも作ってそこに存分に書けよ。

そうなのである。私はそうしないのだ。「東京物語」は、比較するのもナンセンスだが、今まで宇多田光が作ったどの作品よりも美しい。確かにそう思う。思うのだがやはり私は人として、というか存在としての宇多田光にそれ以上の何かを見いだしているのだ。人柄とか容姿とか創造性とか、兎に角ありとあらゆるファクターを総合的に判断すると、というか感じ取ると結局「宇多田光だ」となるのである。でなければこんなblog続けない。いや、そもそも続けれないわな。彼女の描く物語は、東京物語より更にもっと美しくなってゆく。今はその過程に過ぎない。

しかし、そのハードルは恐ろしく高い。GBHPVは多くの人に感動を与えた。僅か6分足らずの間の映像に、12年間の蓄積を最大限利用したシンプルかつ大胆、なのに親密でもあるフォーマットを用いて人々の涙腺に訴えかけた。秀逸なアイデアの数々はGBHという最高の楽曲と見事にテヲトリアッテ、最高の6分間を作り上げた。私はこれより素晴らしいミュージック・ビデオを他に知らない。「光」くらいかな。

東京物語」は、その6分間の感動のテンションがそのまま2時間以上続いていくのだ、と私には感じられる。大袈裟に言っているつもりはない。それ位に全カットが一幅の絵画のように美しい。ハナったれのがきんちょが母親にプー垂れてるだけの場面ですらそう感じられる。どういう感覚なんだ?と思われるかもしれないが、例えばあなたが死ぬ間際の床についていたとして、若くして死に別れた一人息子が幼い時の姿で夢枕に現れて昔のようにへの字口で文句を言ってきたとしたら?余りの懐かしさに涙が堪えられなくなるだろう。東京物語は、生活の中の何気ない場面を総てそのような究極の情景として捉え切っている。これより優れた映画なんて想像できない。点数をつけるとするなら間違いなく100点である。


…という作品を超える何かを、宇多田光は持ち合わせている。それが何なのか、彼女が生まれてもう30年が経とうとしているが未だによくわからない。いや、既によく知っていて、わかりきっているから考えても仕方がないのかもしれない。それでも我々は生きているので、探し続ける事になるだろう。毎日あんなツイートしてるアラサー女子相手に何を言ってるんだ私は。まぁ、いいか。