無意識日記々

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感覚に訴える難解

今日のツイートで面白いな、と思ったのは既知のエピソードに少し色を加えて話すのにきっちり140字以下で纏めている所。全角132文字。巧いもんだな。内容も記述も過不足ない。最後の『笑』はなくてもよかったと思うが29歳の光からすれば19歳の光はこどもっぽいのだろう。微笑ましく過去を振り返った訳か。

さて明日は8月9日、【久しぶりの大事なお知らせ】から2年が経つ。『2年になるか、5年になるか、わからない//』と言っていた2年である。別にこの2やら5やらの数字に意味はないかもしれないし、今更四の五の言ってても始まらないのだが、取り敢えずそれだけ経とうとしているのだ。

そういう時期に今夜のような真面目なツイート、しかも過去を振り返るような話をしてくるもんだから何かそろそろ区切りなのかと勘ぐってしまう。まぁそれもいつもの事だが。別に何もなくてもいいくせに。

寧ろ怖い、かな。何に対する恐怖なのだろう。自分でもよくわからない…ようなよくよくわかっているけどそれを認めたくないような、そんな感じだろうか。もし「5年」の方だったら明日も何も起こらない訳だし、何故だかそちらの方がほっとするような。

変な話だが、「まだ休んでくれていた方がいい」という奇妙な感覚が身体の中に残っているような。復帰した時のテンションに着いていけるだろうかな、取り残されはしないかな、と心細い気持ちになる。それはそれで愛しい感情だと思うし、悪くない。即ち『それもまた風流』だと思うのだが、飛び込んでみる前から受け入れられているのはそれはそれでまた力が入らない。力まなくてもいいといえばいいのだが、歌が鳴り響き始めるともう元には戻れないんだろうなと思うとそのスピード感に身震いする。確かに、あと3年位なら別に、と思ってしまう。

でも、そちらの時の流れの方が真実なのである。歌われずに流れ去る歌、生まれる事すらかなわなかった歌が背中の向こうに山ほど在る。それを気にしていては生きていけない。だからこその人間活動なのだし、"生きる"というそういう事を抱えきる必要もないだろう。しかし嘗て光は、多分抱え込んでしまおうとしていたし、実際どこまでも広く抱えられていた。今はもっと広い…のだが、何かわかりにくい。人生とはそういうものだと言い切る姿もまた美しいが、馴れ初めに期する思いを忘れ去るなんて出来やしない。それを意志において再び、と歌うのがGoodbye Happinessで、次のSay Helloは別れの歌となるのだろうか。否応無しに、巻き込まれていく。取り残される心配よりも先にする事が山ほどあるだろう。生きる事はまたそういう事でもあるものだ。忘れる事は幸せだ。だからそれに別れを告げたのであった。明日はどんな日になるのかな。晴れると、いいな。