無意識日記々

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時間と性

光の発言は相変わらず昔ながらの"フェミニスト"っぽい匂いがするなぁ。その面においてリベラルというか。世が世であれば活動家になっていたのだろうか。いやでも今の日本でも女性の…あれ、"地位向上"っていう響き、21世紀じゃあまり使わないのかな。

というか、性別ってそんなに大事かね。確かに極めて明確に生物の種を二分する枠組みではあるが、別に遺伝子は"必ず"そう作動すると決められている訳でもない。そもそも…という話をし始めると長くなるので打ち切っとこ。

年齢ってそんなに大事かね。例えば、飲酒制限を年齢で区切る法律があるが、あんなものは粗い目安にすぎない。本質は年齢ではなくアルコールが本人に与える影響なのだから、19歳11ヶ月と二十歳の間には何も…という話も長くなるので打ち切るか。

性別と年齢よりずっとややこしい気がするが折角なので。血筋ってそんなに大事かね。顔や性格が似る事もそりゃあるだろうが、例えば両親に何を感謝してるかっていえば生んでくれたのは勿論だが育ててくれた事である。例えば今更血が繋がってませんでしたよ、と言われても過去は消えない。何も変わらないよ。どこから生まれてきたかより、どう一緒に生きてきたかでしょ。

お金ってそんなに大事かね。大事だな。うん。文明社会で生きている人は皆お金で命を繋いでいる。サバイバルで生きられる能力もあった方がいいけどね。

性別とか年齢とか血筋とか収入で偏見や憧憬や賞賛や罵倒や誤解を鱈腹招いてきたのがヒカルという人だ。「15歳の少女なのに」と。「藤圭子の娘だってさ」と。『お金ならあるわよ』と。いやそれは自分で言ったのか。

それぞれのレッテルに対する光の思いは様々だ。年齢に関しては、若い頃はただ窮屈なだけだったと。先ほども触れたが、法律の話だ。藤圭子の娘である事に対しては、誇りもあればコンプレックスもあれば嬉しさもある。お金はほぼ他人事だが、やはり巨額を寄付できる事に対しては…足りない、とか思ってそうだな…そんな感覚だろう。

「女性であること」については、どうか。もう様々な心境の変遷を我々は見てきているのでここで纏め直す必要もないと思うが、男の子になりたかったり女である事を認めていきたくなったりというのは、恐らく年齢というファクターが大きい。女性は、男性と較べればより「時間の性」であるという事ができる。いや、男性もそんなに変わらないかな。寧ろ、性と時間は切り離せないとみるべきだ。性別と年齢は常に絡み合いながら事象を生成していく。年齢なんてただの数字だし性別なんて右と左みたいなもんだが「年齢×性別」という積は非常にダイナミックで、あらゆる人に対して意味を持つ。私が両親(即ち両性)に対して育ててくれた事に感謝出来るのも、両性が居て長い時間を彼らが先んじて過ごしてきてくれたからだ。そのバランスと流動性は人に時間の切なさと儚さを教えてくれる。

光も、年齢と共に女性性を受け入れるようになった。彼女の場合は逆の順番はなかったような気がするがそれも人によるだろう。成長するにつれ自身の身体性に違和感を覚えるケースも当然出てくる。それもまた時間と性の物語である。30歳を迎えるという事と女性であるという事。この掛け算はまた光の心境に変化を与える事になるかもしれない。