無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

枕と戯れてる間にリミットが来たエントリ

3桁RTのツイートに鋏まれた1桁RTはさながら21エモン家のような趣だが、ヒカルも巧くTwitterのシステムを利用するようになったものだ。大量のフォロワーを擁するついったらーの方(まぁ、4桁とか)は派手に拡散する野暮な真似は呉々も慎重に。

でその内容は「ドウイタシマシテ! 親しくない人に(日本語で)"オマエ"って言うと失礼な場合もあるから"アナタ"とかを使ってみたらいいと思うぞ! ガンバッテ!」てな感じで如何にも普通な内容なのだが、私がこれを読んで最初に感じたのは、「"Gambatte"って"Gambling"に似てるなぁ」という本文とはまるで関係ない論点だった。どないやねん俺。

でも、なるほど確かに頑張るってギャンブルだなぁ、とも思った。頑張る事への抵抗って苦しい事自体でも辛い事自体でもなく、それらが将来報われないかもしれない事への恐れと怯みから来るんだもんなぁ。頑張れる人は真のギャンブラーかもしれない。Gambaru, Gamble, Gambare, Gambler.

ヒカルは人生のギャンブラーだ。その心意気は『雪だるま 一緒に作ろう 溶けるけど』の一句に集約されている。後に何も残らなかろうが作らずにはいられない根っからのクリエイター気質。何も報われなくても―というより作る過程自体が報いだと言っていいか。それだとGamblerって感じじゃないな。いやしかし真性のGamblerの皆さんは得をしようが損をしようがGambleに明け暮れるか。いやいや今はそういう話じゃない。逆だ。Gambaru事がGambleだろう、という話だ。

作る過程自体が報いだというのなら、なんていうんだろう、字面の通り"頑張ってる"感じが薄いかもしれない。やはり、"ダメかもしれないけどそれでもやる"的な無理強いモードが介在してこそのGambaru Gamble Feelingが出てくる気がする。ヒカルの言葉を借りれば「何かを犠牲にする覚悟」だろうか。今こんなに歯を食いしばって頑張っている事で私は楽しく過ごせたかもしれない今日の夜を犠牲にしている、みたいな、そういうの。GameとしてのGambleというより人生の博打打ちというか。20年ひたすらピンポン球を打ち続けてこの度銀メダルを獲得した福原愛なんか「大きな大きな賭けに勝った」と形容してもよいような。なんか違うか。

何が言いたかったかというと、ヒカルは努力を怠らないだろうが今後の人生で"ミュージシャンになる"という以上のGambleをするのだろうかという、そういう所で"面白がらせて"くれる事はあるのかなぁ、みたいな話をしたかった。のだが全然まとまらなかったな。あはは。