無意識日記々

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Making Spontaneousness

「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」とよく言うが(出展誰だっけね)、作詞の場合でなら「高度に洗練された歌詞は話し言葉と区別がつかない」とでも言えばいいか。ちょっと意味が違うけど、ヒカルの歌詞は結局そういう感じに進化してきた。

どちらかといえば「歌詞が巧い」と評されるのは初期の楽曲だ。なんというか「誰がうまい事言えと」と突っ込まれる、突っ込み易い言い回しを多用していた。前々回に言及した『明日へのずるい近道はないよ』とか『指輪も返すから私のこころ返して』とか『記憶のすき間からのぞくと消えるあの模様』とか、とにかく"歌詞然"としていて如何にも巧いなぁと感心させる方向性だった。

これが、大体ULTRA BLUEの頃から変化が訪れ、"まるで喋るような調子"で歌詞を載せる事が多くなっていく。まず"誰かの願いが叶うころ"で恐らく日本語の歌で初めて歌詞を先に書いて歌を仕上げた。これは、歌詞の言葉のイントネーションを意識して―時には合わせて、時には外して―メロディーを書く事に繋がったと思われる。また、Be My Lastではさだまさしをよく聴いていると述べ、テレビで共演するまでになったが、彼もまた"喋るように歌う"達人である。そういった流れの帰着としてULTRA BLUEには、まるで喋り言葉のような自然な日本語、しかし歌詞に載せるのは多分無理だろうと従来なら思われていたような節が次々と居並んでいた。『あんたに何がわかるんだい』『もう済んだことと決めつけて損したことあなたにもありませんか?』等々…これらは、さっき挙げた初期の歌詞と違い、こうやって書き下しても何の感慨も与えない。言ってる事は大した事じゃないのだ。しかし、こういう台詞をあれだけしっかりと自立
成立したメロディーに載せているのが超驚異的なのである。こうやって提示されてしまって定着するとどこが凄かったかわからなくなってしまいそうだが、故にその「魔法度」は初期の歌詞に較べて遙かに高い。あまりにもしっくりハマってるから、「宇多田何言ってんだ」みたいな反応になる。高度に発達した歌詞は喋り言葉と区別がつかなくなっていくのである…。